久遠



【1】


さわり、と一筋の柔らかい風が頬を撫でていく。
さわさわ、と木々の緑が、大地に根を下ろす緑が優しい風に揺らいでいる。

都市部からほんの少し離れたところだというのに、目の前に広がる風景は街の喧騒を忘れさせる程長閑なもの。
その景色の中に一人の青年が佇んでいた。
ここは彼の人が生まれ、愛した故郷。その溢れんばかり一面の緑は、どこか彼の人を彷彿には充分のものだった。



広がる緑の中に一本の道が繋がっている。それは綺麗に舗装され、脇には街路樹が規則正しく並んで植えられている。しかし、その道を走る車の数は疎らで。それはここが都市部から離れた、あまり人が多く住まない場所であることを示しているようだった。
その道を青年は歩いていた。歩む先には何も目標物がないように思えるが、青年の足取りには迷いがなく確実に歩を進めている。一歩一歩、彼の目的地へと向かうように。

どれくらい歩いたのだろう。
ほんの短い時間だったのかもしれない。しかし、青年にはとても長い時間歩いたように思えた。何故なら、少しでも、一分一秒でも早く目指す場所へと向かいたいという思いからだ。
だが青年の顔にはそれほどの焦りは見られない。むしろ、若干寄せられた眉にほんの少しの不安が見え隠れしている。その矛盾を抱えながらも青年はただ歩き続けた。
目的地へと一心不乱に歩く青年の頬を、また風がさわり、と撫でて通り過ぎていく。その風に気付いたのか青年はふと立ち止まり、上げた視線の先にあるものを認めると、切れ長で鋭い印象を持つ瞳をすうっと眇めた。まるで愛しいものを見つめるかのように。
そして迷いもなく、綺麗に整備された道から逸れるように延びる小道に足を踏み入れた。その小道は今まで歩いていた舗装された道のように歩き易いものではなかったけれども、青年は気にした風もなく足を運び続ける。

続く小道の先には緑が広がる小さな丘。そしてその丘には小さな小さな一軒の家が建っていた。




小さな丘の上に建つ一軒の家は、今の時代には珍しく木材を使って建てられている。
外観から見ても建てられてからかなりの年月を過ごしてきたようだ。だが、その経た時間と造りとが相俟って暖かい風合を醸し出している。
その家が醸し出す雰囲気が、まるでそこに住まう彼の人と似ているようだ、と青年はふと思った。
家は決して大きいと言えるようなものではない。こじんまりとした小さな家。精々住んでも二、三人が限界だろうという大きさだ。
ぐるりとその家を囲うように作られている木の柵は、その内にある家と併せてこの長閑な風景にとても溶け込んでいる。そして、あれは畑だろうか。家と柵の間、所謂庭と呼ばれる敷地内には数種類の野菜らしきものが植えられていた。


青年は歩み続けていた足を突然止めて、少し離れた距離からその家を伺うように眺めた。
その家にはきっと青年が訪ねたい人が住んでいるのだろう。その為にこの場所へと足を運んだのなら、すぐ訪れるべきなのだろうが、何故か青年の顔には迷いが浮かんでいる。

会いたいからこそここまで来た。けれども訪れていいのだろうか。
訪ねて何を言えばいいのだろうか。彼は何と応えてくれるのだろうか。

葛藤が青年の足をその場に縫い止めていた。青年の元来の大人しく遠慮がちな性格が災いしてか、なかなか足が進もうとしない。
青年は足元を見つめ迷い続ける。そんな俯いた青年の濃緑の髪を風が優しく揺らした、その時だった。


ガチャリ、と音を立てて扉が開き家の中から一人の青年が姿を現した。
立ち尽くしていた彼はその音に反応して顔を上げ、そしてその瞳が大きく見開かれる。屋内から現れた青年は、間違いなく彼がこの4年間追い求めた人物その人だったからだ。

青年の姿は彼の記憶の中の姿と幾分も変わってないように思えた。
緩く捲いた亜麻色の髪。白く透き通るような肌。彼が立つ位置からは見えないが、その瞳はきっと空や海を映したかのように美しい碧色をしているはず。
いや、彼は間違えるはずはないのだ。
何故なら彼は、今目の前にいる青年と同じ容姿、同じ声を持つ青年と同じ目的を持って行動をしている。云わば同士、仲間という人物と異なる点を探すのが難しいほど二人の青年はよく似通っているのだ。
だから、彼はあの美しい色をした瞳を忘れるはずはない。いや、例え側に同じ色の瞳を持つ青年がいなくても、彼は忘れることなどなかっただろう。それほど彼の中に印象深く刻み込まれた瞳だった。

彼はその瞳を持つ青年のことが好きだった。また、青年も彼のことを好きだと言葉にはしなくても想いは同じだった。道徳的、倫理的には間違っていることかもしれない。ただ、危機的な状況で生まれるそれだったのかもしれない。
だがあの時の彼らは、本当に心からその想いを寄せ合っていたのだ。同僚、仲間という関係を超えて。
だから、彼が追い求めていたのは現在仲間として過ごしているその青年ではない。いくら同じ容姿、同じ声であろうと、この、今目の前にいる青年・・・・・4年前、共に戦った彼なのだ。

実った野菜でも収穫しているのだろうか。それとも畑の手入れでもしているのだろうか。青年は彼に気付くことなく、庭に出てきて何か作業をしている。
その姿を見て、彼は目の奥が熱くなるのを感じた。



4年前のあの日、青年は彼の前から突然姿を消した。
その時、彼と青年が身を置いていたのは戦場だった。いつその姿が、その命が消えてもおかしくない、まさにそれが普通だと言わんばかりの場所だった。
しかも青年の姿を見失ったのは、あの広大な宇宙の中。幾つものモビルスーツ同士が争い、幾つもの命が散った場所。その中の爆発に青年も巻き込まれたのだ。
彼はその現場を見たわけではなかった。だから信じる事が出来ず青年を探した。探して探して、それでも見つけられないまま、また次の戦場へと出てしまった彼は不覚にも捕らわれ、4年という月日を拘束されたまま過ごしてしまった。
その苛烈を極めた戦いは仮初の終焉を迎え、今はまたこの歪んで再生をしてしまった世界を正しいものにしようと再び戦いに身を投じている。その為、彼は捕らわれていたこともあるが、青年の無事を4年間確認することが出来ずにここまで来てしまった。
ずっと彼のことを思い続けていた。一刻も早く探し出して彼の安否を知りたい、けれども拘束され身動きできない日々。
そんなジレンマを抱えながら過ごしてきた日々のことを思い出すと、彼の胸は何かに掴まれたかのようにきゅうっと痛んだ。

だが、想い続けた、求め続けた青年が今、目の前にいる。一時は絶望すら漂った命は、今まだ目の前にいる青年の中に宿り続けている。
その事実が彼を歓喜に震わせ、言葉に出来ない喜びが満ち溢れていた。
だから彼は迷った。
あの厳しい戦いから奇跡的に助かったその命を、今穏やかに紡いでいる青年に、あの4年前の厳しく辛い過去を共有する自分がその眼前に姿を晒してもいいのか、と。まだあの組織の一員である自分が、と。
更に、あの頃と同じ気持ちでいてくれると自惚れが許されるなら、自分はまた戦場に立つ身。彼を悲しませてしまうのではないか、と。
そんな思いが、彼に声を掛けさせることを躊躇わせていた。
ただ見守るだけでいい。彼の無事が確認できただけでいい。彼が幸せに、平穏に過ごしてくれてるならいい。
もう一度この目で彼の姿を見ることが出来ただけでいい。

そう言い聞かせて立ち去ろうとした時だった。





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