久遠



【3】


二人掛けのソファに並んで、身体を向き合うように座っているアレルヤの露わになった右頬を顔のラインを沿うように、ニールはその白い手でそっと撫でた。
「こっちの目も・・・出すようにしたんだな・・・・・」
そう呟きながら、ニールは親指で右の目元を撫でていく。優しく触れるその仕草に、アレルヤは気持ち良さそうに目を細めた。
以前は滅多に晒されることのなかったニールの長くて綺麗な指。それでもアレルヤは睦言を交わしながらこの指に幾度となく触れてきた。そして、こんな風に優しく、愛おしいものを撫でるように触れてくれることが好きだった。
「・・・・・・・・ええ。」
頬を撫でるニールの手の暖かさがあの頃と同じように感じられて、アレルヤは目の奥が熱くなるのを紛らわせるように目を閉じて答えた。

この右の金の瞳は以前、もう一人のアレルヤ―――ハレルヤの象徴のようなものだった。
穏やかなアレルヤが表層に立つ時は落ち着いた銀灰色の左目が露わになり、凶暴なハレルヤが表層に立つ時は獰猛な獣のような金色の右目が露わになる。
一つの身体に二つの人格。主人格であるアレルヤと、アレルヤを守る為に生み出されたハレルヤは対極的な人格だった。人を殺めることに消極的なアレルヤと、自分がアレルヤが生き残る為なら人を殺めることを厭わないハレルヤ。その二律背反な二つの人格は片割れの人格を否定しないまでも相容れることはなかった。
しかし4年前の国連軍との最終決戦時、それまで生に対する執着が薄かったアレルヤが生きる意志、ハレルヤと同じ望みを持った為、遂に同調することが出来たのだ。
何としてもこの戦いを生き延びる―――その意志を以って。

「・・・・・やっと、ハレルヤと分かり合えた、と僕は思ってるんです。だから、これからは僕だけじゃなくハレルヤと一緒に世界を見ていこうと思って・・・・・」
片目を隠すように伸ばしていた髪を切ったのは、もっと広い視野で世界を知りたいというアレルヤの意志の表れだった。そのアレルヤの思いに、ニールは優しく微笑む。自分の知らない4年という歳月の間の彼の成長が心から嬉しかった。
「ハレルヤは元気か?」
身体はアレルヤと共通なのだから元気なのかと聞くのは些かおかしい気もしたが、他に良い言葉も思い付かずニールはそう訊ねると、アレルヤは少し悲しそうな顔をして首を左右に振った。
「・・・・・ハレルヤは、4年前の国連軍との戦闘後・・・・・」
それだけを口にして黙ってしまったアレルヤの様子に、ニールははっと息を詰めてその意味を悟った。
暫く二人の間に沈黙が下りる。

あの戦闘後、どれだけアレルヤが内なるハレルヤに語りかけも返事は返ってこない。あの時に負った傷が原因なのだろうか。それともハレルヤが補っていたアレルヤの生きる意志を、アレルヤが自ら望むようになったからなのか。
『先にいってるぜ』
その言葉を最後に、あれからハレルヤの声をアレルヤは聞くことが出来ないでいた。けれども。
「でも僕は、まだ僕の中にハレルヤがいると信じてます。ただ、きっと今は眠っているだけなんですよ。」
沈黙を破ってそう言ったアレルヤの声は、先程とは変わって明るく響く。
ハレルヤの声は聞くことが出来ないけれども、アレルヤの中でハレルヤの存在が消えたとはアレルヤ自身思ってはいなかった。
そうハレルヤの存在を信じていることを口にするアレルヤの表情には淋しさなどは感じられない。眉尻を下げて微笑むアレルヤを見て、ニールも安心したように頷いてみせた。


「貴方こそ、こっちの目、治さなかったんですね・・・・・」
今度はアレルヤがニールの右頬をそっとなぞる。伸ばされた前髪の隙間から覗く右目には、その瞼や目元に薄っすらとではあるが火傷のような傷跡が見えた。その傷跡をアレルヤはニールと同じように親指でなぞってみると、やはり引き攣れた皮膚の感触が伝わってくる。恐る恐る掻き上げた前髪の下から現れた目は、あの美しい色の面影はあるものの左目に比べるとやはりくすんでいた。
ニールのその右目を見て、アレルヤは顔を苦痛に歪める。アレルヤはニールの瞳の色が好きだった。
幼い頃コロニーで育ったアレルヤは、施設を抜け出すまで本当の空も海も知らなかった。本などで知識は得ていたけれども、実際に初めて目にした時にはその美しさに言葉も出ないほどの感動を覚えた。
その憧れ続け、初めて見た時には歓喜に打ち震えるほどの空や海の色を映したかのようなニールの瞳をアレルヤは気に入っていた。そして、その瞳に見つめられるのが好きだった。
だから、その瞳の一つが本来の色を失っているのが悲しく、またあの時無理矢理にでも治療を受けさせていればその後の悲劇も起きなかったのではないかと思うとアレルヤは悔しくて仕方がないのだ。
その複雑な心境を顰め、アレルヤは何度も何度もニールの右目をなぞった。

ニールもまたアレルヤに触れられる手の温もりを心地良さそうに目を細め、そして口を開いた。
「・・・・・生き残っちまったから、さ・・・せめてこの傷ぐらい、侵した罪の咎として、残しておきたかったんだ。」
そう言葉を区切りながらぽつりぽつりと呟くニールの表情は辛そうだった。
ガンダムマイスターとして、いやそれ以前に銃を手にした時から自分がしてきたことの咎をニールは受け入れるつもりで行動を起こしてきた。
自らの命を以って侵してきた罪を贖う―――
それは奪ってきた命の数々に対して傲慢な思いだったかもしれない。それでも侵した罪の数々はニール自身を苛み、重く圧し掛かってきた。自らの命で以って咎を受けるということは、どこか罪から逃げてしまうような気がしないでもなかったけれど、ニール自身、その方法しか思いつかなかった。
だから、死を受け入れるつもりだった。
けれども、思いは叶わずその命を繋ぎ止めてしまった。
その事実は更にニールに重く圧し掛かり、今も苛み続ける。瀕死の状態であったところをソレスタルビーイングのエージェントに助けられ、長期の治療により意識を取り戻した時、ニールは愕然とした。生き延びてしまったのか、と。罪を贖うことすら許されないのか、と。
だが、自ら命を絶つことは考えられなかった。いや、考えなかったわけではない。だがそれでも思い留まったのは、望みであった変わった世界を見てみたいという思いと、自分の代わりに組織に入ることを望んだもう一人の自分への心掛かり。そして、この目の前にいる青年への思慕、だったのかもしれない。
再生治療を拒み、負った傷をそのまま己の身体に残したのは、せめてもの償いと、そしてあの時組織の理念を捨てて私怨に走ってしまった自分への戒めのつもりだった。

その様々な思いが、ニールの今の表情をそうさせている。
アレルヤも当時から、ニールの咎を受け入れるという思いを薄々とは感じ取っていた。
マイスターのリーダーとして、年長者として常に物事を冷静に判断し、ミッションを円滑に行う為アレルヤを含む個性的過ぎるマイスターたちのフォローを進んで行っていた彼。一見前を向いて生きているような彼が、時折見せる影を纏った姿。仄暗い光を宿したその瞳を垣間見た時、アレルヤはニールの心に闇があることに何となく気付いてしまった。
けれどもそれを口にすることは出来なかった。ニールがアレルヤにその隙を与えることをしなかった所為もあるし、またアレルヤも不確定要素が多すぎて口にすることを躊躇っていたこともある。
だが、こんなことになるなら思い切って口にしてしまった方が良かったのではないか、と今アレルヤは思う。あの時ニールに詰め寄っていればこんなことにはならなかったかもしれない。何か違う方向に事は進んでいたかもしれない、と。
しかし、結局は憶測でしかないのだ。結果は現状であって変わることはない。今目の前にあることが事実なのだから。
苦々しい思いを胸に抱き眉根を寄せるアレルヤに、ニールは頬を撫でる手にそっと自分の手を重ね、いいんだよ、これで、とそっと呟いた。
「俺は、後悔なんてしていないから。」
そう言って儚げに笑うニールの顔は若干の寂寥感は漂っていたけれども、あの頃に感じた仄暗いものを感じることはなかった。そんなニールに、アレルヤは戸惑いつつも微笑みかえす。自身の中にまだ納得が出来ないものがあることを感じつつ、それが彼の決めたことなら、と。

触れていた頬から手を離し、重ねられていた手をそっと取ってその白くて長い指に唇を這わす。ニールの手はあの頃に比べれば幾分荒れてはいたけれども、それでも無骨なアレルヤの指に比べれば繊細で綺麗だった。
「・・・・・貴方が生きていてくれて・・・・・本当に、良かった・・・・・」
ニールの手を両手で握り締め、祈るように自分の額に当てて呟いた言葉は、アレルヤの心からの気持ちだった。





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