久遠 -after story-
青年は毎日飽きることなく空を見上げ続けていた。
抜けるような蒼が広がる日だけでなく、例えそれが灰色の雲に被われている日も雨の滴が止め処なく降り頻る日も、そして真白い雪の結晶が舞い落ちる日も、来る日も来る日も空を見上げ続けていた。
日々空を見上げたところで、大きな変化があるわけでもない。あったところで雲の形が変わっているか、せいぜい空を翔る鳥の数が違うくらいだろう。
けれども青年は空を見上げ続けていた。残されたたった一つの空を映した海のような碧い瞳で毎日、毎日。
彼のその行為は、ある日突然やって来た青年が帰った翌日から始まった。その日彼が目にしたのは、澄み渡るような青空の下愛しい青年が駆る橙色の機体。
あの日以来、この地域でその機体を見掛けることはなかったけれども、ひょっとしたら彼の眸には羽ばたくように翔る橙色の機体が映っていたのかもしれない。
だから空を見上げる彼の瞳は、愛しいものを見つめるようなとても優しい色をしていた。
彼は意図して世界の情報を知ろうとはしなかった。興味がなかったわけではない。どちらかというと一般の人々より気になっていた方だ。
だが知ってしまえば、現状はどのような情勢で動いていて、どんな状況になっているのかは簡単に理解できてしまう。わかってしまえば気になるのは青年の安否。
青年は死と隣り合わせの場所で、文字通り明日の命さえわからない状況で戦っている。情報を得てしまえば現在青年はどのような状況に陥っているのか、胸が張り裂けんばかりに心配をしてしまうのは容易に想像出来た。生きているのか、それとも・・・・・。
だが、青年は帰って来ると言った。必ずここへ、彼の元へと帰って来ると約束した。
だから彼は青年のその言葉を信じて世間を流れる情報に惑わされることなく、ただただあの日の青年の笑顔を思い出し、約束の言葉を胸に青年の帰りを待ち続けた。
あれからどれくらいの季節が巡ったのだろう。
瑞々しい若葉の生命力が溢れる季節、強い日差しが降り注ぐ季節、吹く風に物淋しさを感じる季節、身を刺すような寒さに包まれる季節。
それは気の遠くなるような長い長い時間だったかもしれない。しかし、それでも彼はただ一人、青年の帰りを信じ待ち続ける。
そしてその時はある日突然、しかしごく日常的のようにやって来た。
「ただいま。ニール。」
待ち侘びた言葉と優しい笑顔と共に。
***
二度に渡る私設武装組織の人類をも巻き込んだ武力介入は終わりを告げ、世界は人と人が争わない、無慈悲に命を失うことのないものになった。漸く世界は一つになる時代を迎えたのだ。
それからしばらく―――人々の記憶から世界に対して宣戦布告を行った者たちの名前が消えようとしている頃―――
曇り空の日がほとんどのこの土地には珍しく、今日は朝から青空の笑顔が広がっていた。
目に沁みるような青空の下、一人の青年が庭に出て作業に勤しんでいる。お世辞にも大きな庭とは言えない広さだが、だがその敷地内に建てられている一軒の家を思うと十分なものだ。
黙々と何かを植えている青年の右足はどこか不自由があるらしく時々引き摺るように動かしながらも、さほど不自由は感じていないらしい様で庭園内を小気味良く歩き回っていた。
程なくすると家屋の扉が開き、中からもう一人青年が姿を現した。
抱えるように持っている籠の中には幾つかの白い布のようなもの。洗い終えたシーツや洗濯物に見える。きっと今日は晴天に恵まれたので、陽の光の下で干そうと思い庭に出てきたのだろう。
籠を持った青年は、庭で作業をしている青年の後姿を見つけるとふわり、と春の日差しのように柔らかい笑みをその顔に浮かべた。
「何を植えているの?ニール。」
物干し竿の代わりに簡易的に用意されてるロープに歩み寄りながらその後姿に声を掛ければ、ニールと呼ばれた青年はちょうど全ての苗を植え終えたところで、立ち上がって軽く伸びをすると、
「んー?あぁ、じゃがもだよ、アレルヤ。」
振り返り洗濯物を干しかけている青年、アレルヤに向かってにこやかに笑いながら答える。
その答えにアレルヤは色違いの双眸を丸くさせ、ニールはほんとじゃがいもが好きだね、と少々呆れ顔で呟いた。
「いいじゃねぇか、好きなもんは好きなんだから。しょうがねぇだろ。」
少々むくれながらそう拗ねた物言いをするニールはどこか幼く見えて、収穫した後が恐いな、と口にするアレルヤの顔は困った顔をしながらも声のトーンにはそれが現れていない。
うふふ、と嬉しさを堪えきれないように笑うアレルヤを不思議そうに小首を傾げて見るニールがまた可愛らしくて、アレルヤは更に愛しさを募らせた。
アレルヤは今まで、こんな穏やかに過ぎていく時間を知らなかった。自分は身体的にも過ごしてきた時間も特異であることを知っている。
だから憧れていた。何でもない日常を送ることが。
それも心から愛おしいと思う人と寄り添うように日々を、思い出を重ねていくことが。
「大好きな貴方とこうやって過ごせて、僕はとても幸せですよ。」
柔らかく笑いながらそう言うアレルヤの言葉は心からのもので、あまりにもストレートな物言いにニールの頬は一瞬朱が走る。
アレルヤは言葉を飾ることをあまりしないので、その分純粋で率直なものになってしまう。それに対してニールはいつまでも慣れることはなく、その度に羞恥で頬を染める。だがそれがアレルヤのいいところで、寧ろニールも悪い気はしない。ただ、慣れないだけで。
そしてニール自身もまさか自分が再びこうやって穏やかに暮らせる日が来るとは思っていなかった。それも愛しい人の傍らで。
あの悲惨な過去を経て殺伐とした世界で生きてきた十数年。あの頃はもう二度と幸せを感じることはないだろうと思っていた。この目の前の青年に出会うまでは・・・。だから、
「俺もだよ。」
素直に気持ちを言葉に乗せる。ニールもまた幸せそうに、微笑みながら。
庭作業を終えたニールは、アレルヤの干した真白いシーツを眺める。
青空の下パタパタと風に煽られて揺らめくシーツは、遠い昔、同じように庭で洗濯物を干していた母親や暖かい家族との記憶が甦る。その風景は幸せだった記憶と相俟って、穏やかで幸せの象徴のように思えた。
「ニール?どうかした?」
洗濯物を干し終えたアレルヤの言葉に、ニールはふと我に返り自分がぼんやりと過去を思い出していたことに気付いた。
以前は昔を思い出す度に胸が痛んで仕方がなかった。今でもほんの少し胸は痛むけれど、でも以前ほどではない。寧ろ思い出して胸がほんのりと暖かくなることもある。
それはきっと、この目の前の青年が、アレルヤと過ごす日々が与えてくれたものなのだろう。
「ん?なんでもねぇよ。・・・さぁて、紅茶でも淹れて休憩するか。」
「そうだね。いい香りのアールグレイの茶葉を買ったから、それにしよう。」
空になった籠を抱えてアレルヤはニールの提案に頷くと、家の入り口へと足を向ける。
その後姿に、アレルヤ、と声を掛け振り返ったその瞬間、ニールはアレルヤの唇に自らのそれを重ねた。
ほんの触れ合うだけのそれでも充分満ち足りる。ずっとずっと側に居られるのだから。居てくれるのだから。
自分に再びこんな感情を与えてくれたアレルヤへのほんのささやかなお礼のつもりだった。
ニールの突然な行動に、アレルヤは言葉を失い瞳を丸くする。普段のニールはあまり自分からこういった行動をすることは少ないから呆気に取られてしまった。
慌てて足早に横を通り抜けようとするニールの姿を目で追えば、髪から覗く耳はほんのりと朱に染まっている。それでも何か自分に伝えたいものがあったのだろう、とアレルヤは思う。きっと言葉には出来ない、嬉しさが。
アレルヤはニールの笑う顔が好きだった。もし自分がその力になれているのだったら、とアレルヤもまた嬉しく、そして幸せに思う。ずっとずっと側に居たい。この笑顔を守り続け、見つめ続けたい。
だから。
「ニール、待って。」
数歩先を行くニールの後姿を追い掛け、その白い手に自分の手を重ね、そして繋ぐ。もうずっと離れない、離さないように。
今度はアレルヤの行動にニールが驚く番だったが、でもそれは一瞬のことで表情はすぐに笑みへと彩られた。
重ねあった手から伝わる温もりが心をも温めていく。それは隣に彼が居るから。
やっと掴んだ穏やかな日々をこれからもずっとずっと一緒に刻んでいきたい。久遠の時を二人で。
その気持ちを二人は繋いだ手に力を込めて伝え合い、そしてここれからも二人の時を刻む暖かさの宿る家へと入って行った。
2008.12