遠い背中
ニールは子供の頃から何でも出来て、優しくて、よく気が付く出来の良い兄貴だった。
そんな兄さんを俺は尊敬して、自慢の兄で、そして ――――― 誰よりも大好きだった。
同じ母親から同じ日に、ただほんの僅かな時間の差で産まれて同じ時間を過ごし、同じように両親から愛情を分け隔てなく受けてきた筈なのに。
気が付けばニールは“兄”だった。
父さんと母さんは特別俺とニールを弟だとか兄だとか区別を付ける事はなかったのに。
だからそれはニールが生まれもって得たものなのか、それとも何がニールをそうさせたのかはわからないけれど。
ニールはいつも俺の前では“兄”だった。
それは例えば。
当時人気だったアニメがあって俺とニールは同じキャラクターが好きだった。けれど、偶々訪れた親戚がお土産代わりに買ってきてくれた玩具が、一つは好きなキャラクター、もう一つはそんなに好きじゃないキャラクターのものだったことがあった。
当然、俺は好きなキャラクターの方が欲しい。ニールだってもちろんそうだ。
なのにニールは俺にこう言った。
『ライルはどっちがいい?ライルが先に好きな方を選んでいいよ!』
と。
またある時は、おやつにと出されたキャンディーがイチゴ味とソーダ味の2つだったことがあった。
二人でどっちにするか相談して食べなさい、という母さんの言葉にニールは、
『ライルはソーダの方が好きなんだろ?じゃあ俺はイチゴの方にするよ。』
と何の躊躇いもなくそう言って俺の掌にソーダ味のキャンディーを乗せてくれた。本当はニールもイチゴよりソーダの方が好きだったくせに。
ニールはいつもそうだ。
自分も俺と同じものが好きなくせに、自分よりも先に俺の方を優先させてくれる。偶にはニールが先に選んでいいよと言っても、俺はどっちでもいいんだと言うばかりで俺に譲ってばかりだった。
でもそんなニールが、ニールの優しさが嬉しくて俺は甘えてばかりいた。俺はニールのことが好きで、ニールも俺のことが好きだから当たり前のことだと思い込んでいたんだ。
何でも出来るニール。優しくてよく気の付くニール。
そんなニールは誰からも愛されるのは必然だった。両親からも近所の人からも学校の同級生や先生からも。
けれど、幼い頃は気が付かなかったそれもエレメンタリースクールに通う頃にはわかるようになってくる。
父さんも母さんも特別俺とニールを比較なんてしたことはなかったけれど、周囲の人間は俺とニールを“弟”と“兄”と見るようになっていることを。
普通の兄弟だったら大して気にならなかったかもしれない。けれど、同じ日に生まれた双子の兄弟、俺としては、“兄”と“弟”と区別されることが堪らなかった。ただ俺の心が狭かっただけなのかもしれないが・・・。
『お兄ちゃんだから』『さすがお兄ちゃんね』とニールを褒め称える言葉は俺にとっては苦痛以外の何者でもなくて、その心無い言葉が幼いながらも俺の心の中に澱みとして積もっていく。
ニールのことは変わらず尊敬できて自慢で大好きで。だけど、羨望や憧憬だったものがコンプレックスへと変わっていくのを止めることは出来なかった。
だから俺はジュニアハイスクールへの進学を期に、ニールとは別の学校、ニールとも家族とも別れて過ごす誰もニールのことを知らない寄宿舎の学校を選んだ。
もちろん両親もそしてニールも止めた。理由だって聞かれた。ニールと比べられたくないから、なんて訳を話すことが出来なくて説得にはかなり苦労したけど、だけど最後には折れてくれた。
本当は俺だってニールと離れるのは嫌だ。出来ることなら、ずっと一緒に居たい。だけどこのままじゃあ、いつかニールを嫌いになってしまいそうで恐かったんだ。
だから離れて違う学校へ行くことにした。そしてニールのことを誰も知らない場所で、ニールのようになろう、いつかニールと同じところに立てるように、と秘かに心に誓いながら。
そしてそれを切欠に、ニールのことを『兄さん』と呼ぶようにしたんだ。
初めてそう呼んだ時のニールの驚いたような、少し悲しそうな顔は俺の心に深く焼き付いたけれども。
だけど、まさかあんなことが ――――― テロなんてものが起こるとは思わなかった。
その日俺は寄宿舎に居て、テロに遭うことはなかった。けれどもらった連絡に愕然とした。父さんが母さんがエイミーが、そして兄さんがテロに巻き込まれたなんて。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!
大声で叫び出したかった。すぐに駆けつけたかった。けれど不安定な状況で現地へ赴くことを教師たちに止められた俺は漫然として待つことしか出来なくて。
やっと受けた詳細な事情は世界が凍りつくようなものだった。父さんも母さんも、そしてエイミーも・・・。
ただ、ただ一つの救いは兄さんだけは無事だったこと。
兄さんが、大好きなニールが生きていてくれたことだけで、俺はまだ救われる思いがした。
なのに・・・・・。
あの忌まわしいテロから暫くした後、兄さんはただ一言、俺にメッセージを残して行方がわからなくなった。
『ライルは真っ直ぐに生きてくれ。 ライルの未来が明るく幸せであらんことを・・・・・』
たったそれだけのメッセージ。
俺は叫びたかった。兄さんに言い募りたかった。
何が明るく幸せな未来だ!父さんも母さんもエイミーも居なくなって、もう家族は兄さんしか居ないというのに、その兄さんまで俺の側から居なくなって!たった一人残されて、どうやって幸せになればいいというのだ!と。
確かに俺は自分から皆と離れて学校に行くことを決めた。でもそれは、いつか帰る家が家族があるから・・・いつか兄さんと同じ場所に立てるようになりたかったからだったのに。
結局、俺は一人になってしまった。
残されたのは兄さんからの一言だけのメッセージと、どこかで兄さんが生きているという不確かなことだけ。
それでも、時折口座に振り込まれる学資金と学業に専念できる充分な生活費。それは兄さんからのものだとすぐに直感でわかった。
どこで何をしているかわからない兄さん。だけど、たったそれだけのことが兄さんが生きているという証。兄さんが俺のことを忘れていないという証。
それが唯一俺に残されたもので、また唯一の希望だった。
兄さんのことを忘れる日なんて一日もなかった。生きていれば、またきっと会える日が来る・・・・・そう信じて兄さんが望んだようにカレッジを卒業し商社に勤めるようになった。
まだ兄さんには遠く及ばないかもしれないけれど、それでも、少しは兄さんに追い着けるように、兄さんの自慢の弟になるように、と『真っ直ぐ』に生きているつもりだ。
・・・・・たったひとつのことを除いては。
兄さんがそれを知ったら悲しむかもしれない、怒るかもしれないと思いつつも、この歪んだ世界がどうしても納得できなくて、こうすることが俺にとって『真っ直ぐ』に生きることなのだと勝手に理由付けをして、俺はカタロンの構成員となった。
それから暫く後―――
突然知らされた兄さんのこと。
どこで何をしているのか全く検討は付かなかったけれど、まさかあのソレスタルビーイングに所属していたとは思わなかった。それもあのガンダムに乗っていたとは。
だけど、兄さんらしい、と思った。
兄さんもこの歪んだ世界が気に入らなかったのだろう。兄さんがそう思うようになったのは、俺が思うより随分と前からだったのだろうけど。兄さんはあの全てを奪ったテロが許せなかった。テロを起こしてしまうような世界が許せなかったのだ。
そして俺が今、この世界に不満を持つ。・・・・・やっぱり俺たちは根本的に一緒なんだ、とそう思った。それが何故かやけに嬉しかった。
『生きていれば、きっとまた会える日が来る』
そんな願いは脆くも崩れ去ってしまったけれども・・・・・。
兄さんがもう居ないという事実は確かにショックだったが、それでもどこかあの日からこうなることへの覚悟は出来ていたのかもしれない。
戦術予報士から送ってもらった一枚の画像を携帯端末に映し出して眺める。
4年前のソレスタルビーイングのクルーたちの映像。そこには俺の知らない兄さんが俺と同じ容姿をして柔らかく微笑んでいた。
覚悟はしていた。していたけれども、こうして兄さんの姿を見ると瞳の奥がしわりと熱くなってくる。
歪んだ世界を憎み銃を手にして、最後は家族の為に散った兄さん。
なぁ、兄さん。兄さんはそれで良かったのか?居なくなってしまった人たちの為に命を懸けて。俺の為に生きてくれようとはしなかったのか?
兄さんはあの時、俺の未来が幸せであるようにと言ってくれたけど、俺は兄さんが居てくれれば充分だったんだ。
何を間違えたんだろう。どこで狂ってしまったのだろう。
もし、テロさえ起こらなければ兄さんは銃を取ることはなかっただろうか。もし俺が、あの時兄さんから離れることを選ばずにいればずっと一緒に居ることを選べば、変な意地を張らなければ兄さんを失うことにはならなかったのだろうか。
今となってはもう、何もかも遅いのだろうけど・・・・・。
映し出された映像の兄さんの顔をそっと指でなぞる。
追い着きたかった背中は、もう二度と追い着けないほど遠くになってしまった。
「・・・・・・愛してるよ。」
伝えたい言葉も二度と伝えられなくなってしまった。
「ニール・・・・・ッ!」
いつか追い着いたその時に呼ぼうと決めていたその名前は―――もう二度と届くことはない。
2009.02