sakura-drops
はらり、はらりと薄紅色の花弁が風に吹かれて頼りなく宙を舞う。
見上げた空は澄み渡る蒼をしていて、懐かしい故郷のそれとは随分違う気がした。
ここはアジアに位置する日本という島国。経済特区である首都は高層のビルが立ち並び、自然のかけらも感じさせないほど灰色に包まれた街だというのに、少し離れれば緑は豊かに満ち溢れ、川のほとりには遊歩道が設置され自然を感じることが出来るようになっている。
都会を離れればどこでも同じようなもんなんだな、と慣れ親しんだ国と比べながら俺は片手に持っていた煙草を咥えて一息吸い込んだ。
吐き出した紫煙と共に、薄紅色の小さな花弁が空を流れていく。
遊歩道脇に植えられている大木はサクラという名の花らしい。日本ではよく見られる花で、春になると小さくて頼りない花なのに木一杯に花をつけて幽玄な姿となる。
“満開になったその景色は、言葉を失くすほど綺麗なんだぜ。”
そう教えてくれたのは、十数年ぶりに再会した兄だった。以前に日本へ立ち寄る機会が何度かあって、春になる度楽しみにしていたんだとも言っていた。
それなら、と先日その話が出た時に今は丁度日本は春を迎える頃だから・・・。そんな話になって、今こうして兄さんと二人、日本へサクラを見に来ている。
ひょっとして、兄さんと二人きりで出掛けるなんて二十年ぶりくらいになるんじゃないだろうか?
まさか、こんなに時間が掛かることになろうとは思ってはいなかった。
子供の幼い反抗心と歪んだ兄への想いを隠す為に離れることを選んだのは自分の方だったのに、それがあんなことになるなんて想像だにしていなかった。またすぐに会える、一緒に暮らせるようになる、と安易に考えていたものはたった一つの事件で打ち砕かれ、俺と兄さんを離れ離れになった。
十数年。いろんなことがあった。命の危険に晒されたことだって何度もあった。兄さんは文字通り生死の境を彷徨う羽目にもなった。
けれども今は、それすらをも乗り越えて側にいる。これからはずっとずっと側にいられる。
隠し続けていた兄さんへの想いは再会出来たことによって枷を外したように溢れ、それは独占欲に似たものとなって現れた。もう、兄さんを誰にも何処にもやりはしない。
兄さんはそんな俺の想いも笑って受け止めてくれる。俺もだよ、と言って抱きしめてくれる。
それでも・・・それでも離れていた時間が長過ぎた所為なのか、また兄さんは俺を置いて行ってしまうのではないか・・・、そんな不安が拭い去ることが出来なかった。
「ライルー?な?言った通りだろ?」
俺の数歩前を歩いていた兄さんは、振り返って機嫌の良さそうな声で掛けてきた言葉に我に帰った。
何を考えているんだ、俺は。実際、今兄さんは目の前に居てくれるじゃないか。
「あ・・・ああ、ほんと、綺麗だな。」
うわの空だった俺は誤魔化すように当たり障りのない言葉を返す。けれども兄さんはそれに気付かずに、咲き誇るサクラに夢中になっている。嬉しそうに、目を優しく細めて眺めるその姿に、俺の心は何故かつきりと痛んだ。
まさかサクラに嫉妬でもしているんだろうか?はっ、馬鹿馬鹿しい。
その時だった。ざあっと音を立てて一際強い風が吹き抜けたのは。
突然巻き起こった風に、思わず目を瞑る。その衝撃で持っていた、随分短くなってしまった煙草を落としてしまい慌てて靴底で踏み潰した。
「兄さん、大丈・・・」
まださわさわと弱くなった風は残っているけれど突風にも似た強さは一瞬だったようで、俺は前を歩いていた兄さんに声を掛けかけて・・・目を瞠った。
「・・・っ、ニールッ・・・!」
思わず駆け出して、兄さんの腕を掴む。
さっきの風で散った大量の薄紅色が兄さんの、ニールの姿を掻き消して、どこか連れ去ってしまいそうだと思った。そんなことあるはずないのに。何故か、薄紅色の膜に包まれた兄さんを見てそう思った。
「・・・・・ライル?」
不思議そうに俺の顔を見上げる兄さんの表情を見ても、俺の顔は強張りが取れない。心臓が早鐘を打ったようにどくどくとうるさい。
「ライル?」
もう一度名前を呼ばれて、はっと我に帰る。掴んだ腕から伝わる兄さんの体温は温かい。間違いなく、ちゃんと兄さんはここに居る。俺の側に、居てくれる。それでも・・・。
「お、おいっ!ライル?」
掴んでいた腕を離して今度はその身体ごとぎゅっと抱きしめた。突然の行動に驚いた兄さんは声を上げているが、気にも留めず更に腕の力を込める。もう、何処にも行かないように。
「ライル?」
「・・・・・兄さんが、ニールがまた何処かへ行っちまう気がした・・・・・」
耳元で弱弱しくそう呟けば、兄さんは呆れたように一度息を吐いて俺の頭を撫でてくれる。
「馬鹿だなぁ・・・もう何処にも行かねぇよ。約束しただろ?」
「・・・・・うん。」
「ずっとライルの側に居るから。」
「・・・うん。」
頭を撫でる感触と、兄さんの優しい声色とその言葉に思わず泣きたくなった。
約束した。もう絶対離れないと。
その約束を俺も兄さんも破ることはないと思ってる。信じてる。だけど・・・だけど心の隅で渦巻く不安は何故か拭い去ることが出来ない。
それでも、何時かはそんなことも忘れる日が来てくれるだろうか。そんな日が一日でも早く訪れてくれることを祈りながら、もう一度腕の中の兄さんを強く抱きしめた。
2009.04