希いて
開け放した窓からさざ波の音と共に潮の香りを含んだ夜明けの風が吹き込む。
真夏の暑さが和らぎ始めた最近は、朝晩の風が涼しく海に近いこともあってひやりと心地好い。
さぁ、と吹き込んだ風に白いカーテンがふわりと舞う。その隙間からまだ明けきらぬ夜空とぼんやりと白い月がちらりと見えた。
夜明け前の静寂な時間。
俺の膝の上で寝息を立てるアレルヤに視線を落とす。先程とは違う穏やかな寝息に、ほっと安堵の溜息が零れた。どうやらあまり好ましくない夢を見たらしい。
『・・・・・ロック、オン』
微かに魘されているところを起こしたら、弱弱しい声で俺を呼び、泣きそうな顔をして縋り付いて来たアレルヤ。そんな彼に俺は笑って『大丈夫だ』『ここにいる』と宥めれば、安心したように微笑んで再び眠りに付いた。
けれど、まだ不安は拭いきれないのだろう。その腕はまだ俺の腰に廻されたままだ。眠っているというのにそれには力が込められていて放そうとはしない。
きっと、それはアレルヤが見ていた夢に所以しているのだろうと思う。俺が、その腕を放して何処か遠くへ行ってしまうような夢でも見たのか・・・
口にしたわけでもないのに。
もしかしたらアレルヤは本能的に悟っているのかもしれない。俺は何時かおまえを置いていってしまうことを・・・
その、俺とは違うアレルヤの本質を表したかのような真っ直ぐの髪を一筋とって手に絡める。
さらさらと指の隙間を零れ落ちていく髪を、何度も何度も梳いてその感触を楽しみ、そして指に憶え込ませる。何時でも、思い出せるように。最後の最期まで覚えていられるように。
こんな、穏やかな時間がこの俺に再び訪れるなんて思わなかった。再び、こんなにいとおしく、大切な誰かが出来るなんて思いもしなかった。
アレルヤを愛している―――
それは、嘘で塗り固め、表面上の優しさと穏やかさを身に付け、纏い、生きてきた俺の嘘偽りない真実。心からアレルヤを愛している。
けれども、俺は、アレルヤが見た夢の通り、何時かはアレルヤを置いていくだろう。この仄暗い感情を棄てきれない限りは。
あの日から消えることのない、体内で燻り続けるどす黒い感情の炎は俺の身体を蝕み、侵し続け、そして何時しか俺の身体を構成するひとつとなった。
もう、引き返すことは出来ない。
月の灯りがカーテンを通り越してアレルヤを照らし出す。
このいとおしい存在をずっと抱きしめていたいと思う。この、逞しい胸にずっと抱かれていたいと思う。
アレルヤと共に生きたいと望みながら、けれど俺の根底にあるどす黒い炎がそれを拒む。矛盾だらけの俺が、更に抱えた矛盾。
それが嫌で、そんな自分に嫌悪して、どこまでも自分勝手な俺を嫌いになってくれればいい、と傷付けるようなことも言った。わざと突き放すようなことをしたこともあった。
なのに。それなのに、アレルヤは俺を放そうとしなかった。こんな俺を愛していると言い続けてくれた。
・・・だから俺も離れられなくなった。
さぁ、とまた風が吹き込んでくる。
こんな穏やかな時間がずっと続けばいいと思う。けれど、その時は刻々と、確実に近付いて来ている。
離れたくないと願うのに、俺はもうすぐこの腕を放してしまうのだろう。
その時おまえは、アレルヤは泣くのだろうか。精悍な顔を歪め、色違いの双眸にいっぱいの涙を湛えて俺の名を呼ぶのだろうか。
(――― ごめんな )
その表情を思い浮かべただけで胸がつきりと痛む。
アレルヤにそんな顔をさせたいわけじゃない。これは俺の、自分勝手な、ただの我が儘なのだから、アレルヤがそんな顔をする必要なんてないんだ。
けれど優しいアレルヤはきっと俺を想って悲しむだろう。その心に俺の姿がある限り。
ざざん、と微かに波の音が聞こえる。
波よどうか、浜辺からその身を引くようにアレルヤの心から俺の存在を攫って欲しい。こんな自分勝手な俺のことを忘れさせてやって欲しい。罵って、恨むようになっても構わないから。
だから、どうか、悲しむな、アレルヤ―――
夜が明け始めたブルーグレイの空にそんな願いを込めながら、俺の目からひとつの滴が零れ落ちた。
2009.09 BGM:ブルーグレーの夜明けに君を