Dear
なつかしい故郷の空はいつも薄い雲に覆われていて、その晴れやかな姿を見ることは珍しい――そんな土地だった。
青く澄んだ空を覆い尽くす雲はまるで何かを堪えるように、暗く重くどんよりと佇んでいる。
そしてやがては耐え切れなくなったのかぽつり、ぽつりと雫を溢し始めたそれは、抱え込んでいた苦しみや悲しみを少しずつ吐き出しているかのように見えた。
そんな故郷の空は、まるで俺の胸の内のようだ、とふと思った。
久し振りに訪れた今日も、やはり空は悲しみを纏った雲に覆われている。あの頃と変わらない、見慣れた空だ。
時折、さわり、と頬を撫でていく風はどこか湿ったものを含んでいて、ああそろそろ一雨くるかな、とぼんやり思った。
さく、さく、と少し伸びた足元の緑を踏み締めながら一歩一歩、歩いて行く。その足取りは心なしか重い。
目的の場所に近付くにつれ、心の中にある感情が普段以上に膨れ上がってくるのはいつものことだった。この場所がそれを強く掻き立てるのだ。
それを表すかのように、空からはぽつぽつと雫が溢れ始めていた。
通い慣れた道。
特に意識をしなくても足はきちんと目的の場所まで俺を連れて行ってくれる。無意識の内に他事をつらつらと考え込んでいて、自身のことながらふと止まった足に気付けば、そこは目指していた場所だった。
いつの間にか空から溢れた雫は周囲を濡らすほどまでになっていて、辺りはしっとりと濡れそぼっている。足元の緑は空からの恩恵を受け、心なしか喜んでいるように見えた。俺の心とは反対に。
ぱたりと足を止めたその先にあるのは、年月の流れを感じさせるケルトクロスを象った古い石碑。そしてそれに刻まれているのは大切だった父と母、そして妹の名前。
家族の名前は雨に濡れた石碑によく馴染んでいて、失ってからの月日を教えていてくれるようだった。
けれどもその下にひとつ、最近刻まれた新しい名前。
この世に生を受けたのはほぼ同じだというのに俺だけを置いてひとり勝手にいってしまった、兄の、愛しい愛おしい片割れの名前。
その刻まれた名前を見る度に現実を突き付けられ、俺の胸は何かに締め付けられるようにぎゅうっと痛むのだ、何時も、いつも。
『どうして』という言葉は何度呟いたかわからない。
此処を訪れる度、刻まれた名前を目にする度、思い出す度。
必ずその言葉が脳裏に浮かぶ。どうして俺を置いてひとり勝手にいってしまったのか、と。
母の胎内にいる時からずっと一緒だったのに。
確かに離れる切欠を作ったのは俺自身だったかもしれない。それでもいつか、必ずその隣に立てる日がまた来るはずだと信じていたのだ。
ただ子供のくだらない矜持と、そして兄弟としてあってはならない感情を抱いた為に少し距離を置いただけだったというのに。
それなのにもう、永遠に別たれてしまった。もう二度と会うことも言葉を交わすことも、その体温を感じることも出来ないのだ。
そうしてしまったのは浅慮ゆえの浅はかな自分の所為なのか、それともそうならざるを得なかった運命の所為なのだと言い聞かせなければならないのか。
どちらにしても、もう引き返すことは出来ないのだけれども。
成績も優秀で射撃の腕も抜きん出ていて、何でも器用にこなし、誰にでも優しかった兄。
そんな兄は俺の自慢だった。兄が褒められることはまるで自分のことのように嬉しかった。
けれども同時に苦しかったのだ。
俺には兄に叶うものが何ひとつなくて。他人に兄と比較されることは、まるで『おまえは側にいる資格がない』と言われているようで。
苦しかった。辛かった。妬ましかった。
だけど誇らしくて大切で誰より愛おしくて。
愛して、いた―――
子供で愚かだった俺の、一度も伝えることが出来なかった、本当の想い。
しとしとと音もなく溢れる天の雫は、辺りを、石碑を、兄の名を濡らしていく。
それはまるで俺の心の涙のように思えた。
「・・・・・なんでだよ・・・」
思わずごちるような声が溢れた。
幾度と繰り返した言葉。けれど、その言葉に返って来る声は一度もなくて。
「っ、どうして・・・っ」
両脇に力なくだらりと下げた手を思わずぐっと握り締める。
それは一体誰に向けての言葉だったのか。
俺を置いてひとり勝手にいってしまった兄へなのか、それとも誰よりも大切で愛していた兄の側を離れてしまった自分へ悔恨なのか。
どれだけ責めようとも、どれだけ悔やもうとも、もう兄は還って来ないのだと理解ってはいる。理解ってはいるけれど、それでももう一度その顔を姿を見たくて。声が聞きたくて。
叶わない願いだと理解ってはいても、俺は願わずにはいられなかった。
だから石碑に刻まれた真新しい名前を見つめながら、俺は心の中で手の届かない遠くまで旅立ってしまった兄へと語り掛ける。
今、大声でその名前を呼んで泣き崩れたら還って来てくれるだろうか、と。
秘め続けた、俺の本当のこの想いを全部余すことなく打ち明けたら、兄さんは戻って来てくれるだろうか、と。
そしてもう一度。
俺と同じ色をした声で、あの優しい響きと笑顔を湛えて俺の名前を呼んでくれるだろうか。
ライル―――と。
気が付けば、雲はその涙を空から降らせることを止めていた。
まるで悲しみを吐き尽くしたかのような雲の切れ間からは僅かに青い空が垣間見える。その色はやはり青く澄んでいて、何か希望を、喜びを見つけたような、そんな晴れやかな色だった。
そんな姿を見せた青い空は雲の切れ間をぬって、一筋の光を地上へと降り注がせる。それはとても神秘的で美しい。
まるで、幼い頃に兄と見た絵本に描かれていた光景を思い浮かばせる、そんな景色だった。
息を飲んでその光に見惚れている俺の頬をさわり、と瑞々しい風が撫でていく。その風の音に紛れて、かさりと背後で何かが動く気配がした。
思わず身体に緊張が走り、くっと強張らせている間にもその音は止むことはない。かさり、かさり、と風が止んだ今、その音は更に鮮明に俺の耳に響いた。
(誰だ・・・)
緊張を保ったまま、背後の気配を探る。不審な足音は紛れもなく俺に向かって歩いてくるが、しかしある程度の距離まで近付いた時、ふとその気配に何かを感じた。
(っ、まさか・・・)
そんなことはない、と頭のどこかで自分が警鐘を鳴らす。
けれどもそれは、たとえどんなに長い間離れていようと本能が覚えていて。そして間違えようもなくて。
(まさか、まさかまさかまさか・・・!)
信じられない思いで狼狽える俺を余所に、その気配は俺のすぐ後ろまで近付いてぱたり、とその足を止めると。
「ライル」
「っ、」
恐る恐る振り向けば、そこにはずっとずっと望み続けた彼の人が俺の願いどおりの優しい笑みを湛えて微笑んでいてくれた。
2010.08 BGM:「つぼみ」(吉〇亜衣加)