夢逢瀬 〜LYLE*NEIL ver〜



ゆっくりと、まるで何かに誘われるかのように深い深淵に落ちていた意識が引き上げられ、眠っていた俺はのろのろと重い目蓋を押し上げた。
開いたばかりの視界はぼんやりとしていて上手く形を捉えることが出来ないが、しかし数度瞬きを繰り返せば次第にクリアになっていく。
そして最初に目に映ったものは見慣れた白い天井だった。
見慣れた天井をただぼうっと見つめる。目は覚めたけれど、どうやら頭の方はまだ眠りと覚醒の狭間にいるようだ。
目の前に広がるのは、淡い光源にほんのりと照らし出されている無機質で殺風景な部屋。けれど今ではこの部屋もすっかりと自分の匂いが染み付いていて、心落ち着ける数少ない場所だ。
気付けばここでの生活にももう随分と慣れてしまっていた。
それくらい、ここにいる。
長年暮らしていた地上とは違って、この宇宙は時間によって外の風景が変わることはない。だから朝と夜の区別が付かない。
けれど目が覚めたということはそれなりの時間なのだろう、とまだ完全に覚め切らない身体を何とか起こし、纏わり付く眠気を振り払おうと顔を洗うべく俺は室内にある洗面所へと足を向けた。
ずるずると引き摺るように歩く身体は何やら重い。最近命をも賭すような大きな戦闘があった所為で疲れが溜まっているのだろうか。
(・・・俺ももうトシかね・・・)
そんな自嘲を胸の内で呟きながら、くぁ、と欠伸をひとつ溢して洗面所へと足を踏み入れる。するとセンサーが感知して灯った明かりの眩しさに、思わず目を細めた。寝起きの瞳には少々刺激が強すぎるようだ。
しかしそれも一瞬の間、目はすぐにその眩しさにも慣れてくれる。そして確認するようにぱちりとひとつ瞬きをすれば、洗面台と共に隣接するシャワーブースが視界に入った。
ふと熱いシャワーでも浴びようかと当初の目的とは違う思考が脳裏を掠めていく。がしかし、やはりどこかそんな気分でもなく、結局はそのまま洗面台にある蛇口を捻って冷水を出すことを俺は選んだ。
ざぁっと勢いよく音を立てて流れるそれを両手で掬い取り、大雑把に顔へ数度浴びせかければ目蓋に残っていた眠気はすっきりと取り払われていく。程好い冷たさを持った水はさっぱりと心地好かった。
身体にはまだ気怠さが残っているものの、おかげで目はすっかりと覚めたようだ。頭の方もすっきりとしている。
水滴を掃うようにふるりと頭を大きく振ってひとつ息を吐くと、俺は顔を上げて目の前にある鏡を覗き込んだ。
そこに映るのは己の顔。そして今はもう逢うことが出来なくなってしまった俺と同じ造りをした兄の、顔。
「・・・・・兄さん」
思わず声が溢れた。
鏡に映っているのは自分なのだと理解っているけど、でももし今もこうして兄がその生を刻んでいるのなら同じ顔をしているのだろうな、と思う。
いつだったか昔の映像を見た時、十年以上も離れていたというのに自分と同じ顔をしている兄を見て思わず笑ったものだった。そっくり、いやそのものじゃねぇか、と。
そしてどこか嬉しくもあったのだ。まだ一緒だと、まだ繋がっている、と。
だから自分だけが年を重ねようとも、兄もまたきっと同じ顔になっているだろうと思えばどこか心が充たされていく。
己の顔を鏡に映せば、誰よりもいとしい兄に逢える―――
それがひとり残された俺の秘かな楽しみであり、そしてまた心の拠り所でもあったのだ。
けれども、と思う。
例え同じ顔をしていたとしてもやはり、違うのだ。
醸し出す雰囲気、僅かな表情の差。
それは双子である自分たちだからこそわかる些細な違いなのかもしれない。だけど、だからこそ鏡に映る兄と同じ顔の自分を見ても、これはやはりあのいとおしい兄ではないのだ、と思い知らされてしまう。
「・・・兄さん」
逢いたい。
逢って抱き締めてそのぬくもりを感じて言葉を交わしたい――その言葉をぐっと喉の奥に押し込めた。
それはもう、叶わないことだと理解っていたから。
理解っているからこそ鏡に映る同じ顔を見ていたくなくて、俺は逃げるように顔を俯けた――その時だった。
「ライル」
俯いた頭上から優しい声が降り注ぐ。その声は聞き慣れた――というより自身の声とまったく同じもので。
しかもこの部屋には俺以外誰もいないはずなのに、でも俺は声を発した覚えなどない。
多少の混乱を憶えつつ慌てて顔を上げれば、鏡には優しい笑みを浮かべた己の顔が映っていた。
いや、違う。
今目の前にあるのは俺じゃ、ない。例え同じ顔をしていてもこれは自分ではない、と思った。
これは、兄、だ。
「ライル」
鏡に映る兄はもう一度優しい声音で俺の名前を紡ぐ。とても大切そうに、いとおしそうに。
「にい、さん・・・」
呆然として溢れた声は情けなくも途切れがちなものになった。
当然だろう、普通では考えられないことだ。ありえるはずがない。まさか鏡に映っている自分が兄になっているなんて。
これはきっと夢だ、と思った。けれど、夢でも構わないとも思った。
ずっと逢いたくて堪らなかった兄に逢えるのならば―――
そんな呆けたままの俺を見て、兄は、ニールは首を少し傾げながらくすりと優しい笑みをひとつ溢す。
その仕草は幼い頃にもよく見た兄の仕草のひとつで、ああやはりこれはニールなのだ、と改めて思った。
「ライル」
三度目の優しい声が耳朶を打つ。優しい響きのそれに思わず泣いてしまいそうだった。
自分はその声でこの名前をずっと、ずっと呼んで欲しかったのだ。
「兄さん・・・」
呼べば鏡の中の兄は『ん?』と応えてくれる。きっと自分が何か言葉を口にするまで優しい兄は待っていてくれるだろう。
けれど、何を話していいのかわからなかった。いや、話したいこと聞きたいことはたくさんあるのに、何を言っていいのかわからない。
どうして、とか、なぜ、とか詰りたい言葉は幾つも浮かんではくるけれど、でもそれを口にしてしまえばきっと兄は悲しむだろうと思うと結局言葉にすることは躊躇われてしまう。
だから。
「・・・俺、ちゃんと『ロックオン・ストラトス』になれたかな・・・兄さんのような『ロックオン』に・・・」
それはいつもいつも疑問に思っていたこと。出来ることなら兄に訊ねてみたいと思っていたこと。
家族の前で誓ったあの日からずっと目指し、心掛けてきた。兄が作り上げた『ロックオン・ストラトス』に少しでも近付けるように、と。
そしてニールが自分にとって自慢の兄であったように、兄にとってもまた自分が誇れる弟であるように、と。
縋るような気持ちで目の前にある姿を見つめれば、鏡の中の兄はどこか嬉しそうにふわりと笑みを浮かべると『もちろんだ』と笑った。
「もうおまえは立派な『ロックオン・ストラトス』だよ、ライル。すっかりおれを越えちまったなぁ」
やっぱりおまえは自慢の弟だ、と心の底から本当に嬉しそうに笑う兄の表情に俺自身も嬉しくなり、そしてなぜか泣きたくなった。
ふと目の前の顔に右腕を伸ばし、その左頬にそっと触れる。そこは冷たい鏡のはずなのになぜかあたたかくて、そして本当に兄の肌に触れているような気がした。
「・・・兄さん」
どうして、と思う。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、どこで道を間違えてしまったんだろう、と思う。
どうして兄は俺の未来なんかを守る為にその命を賭け、どうして俺はつまらない意地を張り素直にならなかったのだろう。
「・・・・・愛してる」
この本当の気持ちを素直に伝えていれば、こんなことにはならなかったんだろうか。
ずっと、今もその側にいられることが出来たのだろうか。
優しい色を湛え俺を映す蒼碧色を真っ直ぐに見つめながらずっと言えなかった気持ちを伝えれば、兄はとても嬉しそうに、そして花が咲かんばかりの華やかな笑顔で綺麗に、とても綺麗に笑った。
「ライル―――」


『ロックオン、アサ、アサ。オキロ、オキロ』
けたたましい電子音に耳元で騒がれて、俺は眠りの海から一気に現実へと引き上げられる。
しかしよほど深い眠りに付いていたのか、意識は目覚めはしたけれど身体は重く、すぐに動こうとはしてくれない。
『ロックオン、ロックオン』
「・・・わぁったよ、ハロ・・・」
起きるまできっと騒ぎ続けるだろう橙色の相棒に若干投げ遣りな返事を返して重い身体を何とか起こせば、なぜか身体の節々が痛んだ。
奇妙なそれにどうしてだろうと理由を考えれば、そういえばと思い当たることがあった。
昨夜はハロの中に残されていた古い映像を見ていたのだ。そしてそのまま眠ってしまったのだろう。
だからこの身体の疼痛はきっと妙な体勢で眠ってしまった所為なのだ、とまだはっきりと覚醒していない頭で思った。
そしてあんな夢を見てしまったことも―――
先ほどまで見ていた夢の内容を思い出しつつ、俺は寝心地が良いとは言い難いベッドから降りて洗面所へと足を向ける。
夢の世界でしたことと同じように―――
まさか同じことが起きるとは思ってはいない。そこまで都合の良いことなんか起きるわけがないと理解っている。
けれどほんの少し、ほんの心の片隅に僅かな期待があったことは否定出来なかった。
重い身体を引き摺って洗面所に入り、そのまま同じように冷水で顔を洗う。
そして覗き込んだ鏡に映った顔は――やはり、紛れもなく俺自身の顔だった。
(・・・んなわけねぇか・・・・・)
理解っていたつもりなのに、それでも期待をしてしまっていた自分に思わず苦い笑いが溢れる。あれはやはり夢の世界での出来事だったというのに。
もう兄の顔を見ることも、声を聞くことも出来ない―――
その現実に何ともいえない気持ちを抱えたまま鏡に背を向けた、その時だった。
『おれも、愛してるよ。ライル』
優しい優しい声が、俺が一番聞きたかった言葉が聞こえたような気がしたのは―――





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