そばにいて、そして寄り添って



けほん、とひとつ、乾いた咳の音が聞こえた気がして、ライルはニュースペーパーの文字を追っていた視線をふと上げた。
すると背後からまたもうひとつ、けほん、と続く咳の音。
その音を辿るように、ライルは掛けていたリビングのソファからそのまま首だけをくるりと振り向かせれば、その先にはキッチンに立つ兄・ニールの後ろ姿があった。
しかし振り向いたライルに気付くことなく、ニールは何か黙々と手を動かしている。そんな兄の手元では絶え間なく水の流れる音が続いていて、それはきっと先ほど一緒に摂った夕食の後片付けをしているのだと理解った。
「兄さん?」
今、この部屋にいるのは自分と兄のふたりしかいなくて、ということは先ほどの乾いた咳の出所は自分ではないとすればこの兄しかいない―――
キッチンに立ったままのその後ろ姿へ様子を窺うように少し語尾を上げて兄を呼べば、そんなライルの声に気付いたニールがふと手を止めて――自分と同じように――首だけをくるりとこちらに向けてみせれば、まるで鏡合わせをしたように同じ顔がふたつ向き合う。
他人が見れば驚くようなその光景も、ふたりにすれば何でもない、ごく当然で当たり前の光景だった。
そんな、振り返って自分を見る同じ顔をしたニールの視線には『なんだ?』という色が含まれていて、ライルはそれに『風邪?』もしくは『大丈夫か?』と意味を込めて同じく視線を返す。すると先ほど小さく溢した咳に気付かれたことを悟ったのだろうニールは、くすりと小さく笑みを浮かべるとこう答えたのだ。
「大丈夫。大したことねぇよ」
と。

そんなやりとりを数回繰り返したある日―――
仕事から帰ったライルは、熱で頬をほんのりと薄紅色にしているニールの顔を見るなり無言でその腕を取ってそのまま寝室へと引っ張り込むと、有無を言わせる間も与えずにベッドの中へと押し込めた。

「ったく、どうしてこんなになるまで放っておくんだよ!」
寝室に入ると同時に暖房を入れ、ついでに加湿器のスイッチも押し、着ていた服を脱がせて代わりに締め付けの少ない夜着用のスウェットへと着せ替え、厚手の毛布にこっぽりと包み込ませたところでライルはニールに悪態を吐いた。
案の定、測ったニールの体温はそれほど高くはないけれど、しかしそれなりの数字を示している。
確かにライルが今朝家を出る時、ニールの顔色が少し悪いように見えた。が、兄も自分と同じく――双子なのだから当たり前なのだが――体調管理の出来るいい大人なのだから具合が悪いと思えばきちんと休んでいるだろうと思っていたのだ。
だというのに。
いざ家に帰って来てみれば兄はどこも悪くないというように普通に起きていて。だけじゃなく洗濯に掃除、果ては食事の用意まで完璧にしてあって。どころかこの寒空の下、夕食の準備にどうしても足らないものがあったから、と買い物にまで出掛けたと言うのだ。それもいつもの格好――シャツとデニム――に薄手のコートを一枚羽織っただけ、という仮にも病人とはあるまじき格好で。
そんなニールに『なに考えてんだ!』とライルが怒るのも無理はないだろう。
口にこそは出さないが、本当は朝に見た兄の様子が心配で一日仕事にも身が入らず、早々に切り上げて帰って来たというのに。なのに兄はそんな自分の気持ちを余所に、すぐれない体調を顧みず普段と変わらず過ごしていたとは・・・。
ずっと心配し続けていた自分の心労を返してくれ、とでも言いたい気分だった。そしてこの兄は、一体自分の犯す無茶がどれほど自分を心配させるのか理解っているのだろうか、とも。
はぁ、と呆れた溜息を溢す自分を申し訳なさそうに見上げている兄の顔を見て、これではまるでいつもの逆だ、とライルはぼんやりと思った。普段はどちらかというと自分が兄に生活態度を煩く言われ、お小言をもらってばかりなのだ。
だから今回はそのお返しとばかりの意味を込めて、もう一度あからさまに溜息を吐いてみせれば、自分の犯してしまったことに居た堪れなくなったのか、ニールは――まるで隠れるように――鼻先まで毛布を引き上げた。やはりニール自身も自分がしてしまったことを悪いとは自覚しているのだろう。
そんな仕草にほんの少し、溜飲が下がる。自分のしたことが悪いと思っているなら、反省しているならいい、と。
そしてふと思う。兄も自分に怒る時はいつもこういう気分なのだろうか、と。
普段は何かと世話好きな兄に構われたくて、わざと世話を焼かれるような態度をとってはいるのだけれども、でもこれはこれで――まるで兄に勝てたような気がして――ちょっと嬉しいだなんて思ってしまうあたり、やはり自分は根っからの負けず嫌いな性格なんだろうな、と少々呆れてしまう。
けれどそんなことを思っているなどと顔には露ほども出さずに『俺は怒っているんだぞ!』という眉を顰めた表情で――まるで蓑虫のように――毛布から顔を覗かせた兄を見下ろしていると、ニールはニールで申し訳なさそうにへにゃりとその整った眉を下げた。
「・・・・・大したことねぇと思ったんだよ」
悪い、と素直に謝る兄にもう一度大仰な溜息を吐く。確かにここ数日、その答えは何度も聞いた。何度も確かめ、その度に『大丈夫だ』と聞いていたから信用していたのに。
しかしその一方で、そうだった、と納得し呆れもする。
この兄は他人の機微には聡く、また人には細々と世話を焼くくせに、自分のこととなるととことんまで鈍いのだった、と。
(・・・うっかりしてたぜ・・・・・)
兄の、ニールのことなら何でも、誰よりもわかっているつもりなのに、それでも失念していた自分の間抜けさにライルは情けなくなった。
(何やってんだよ、俺・・・)
兄は誰よりも自分を優先し気遣ってくれるというのに、自分はどれだけそれを返せているだろうか。自分も兄を誰よりも大切に想っているというのに、それを伝えきることが出来ない不器用な自分が不甲斐無い。
「ライル」
軽く自己嫌悪に陥っていると不意に名前を呼ばれた。
いつの間にか俯いていたのだろう、その声にふと顔を上げれば、『大丈夫だから』と僅かに赤い顔をしたニールが笑い掛けてくれる。そんな兄の表情を見て、思わず考えていたことが顔に出てしまっていたんだろうかとライルはさらに情けなく思った。
今、心配されるのは体調を崩している兄の方であって、自分の方ではないというのに。なのにこの兄は、そんな自身のことを棚に上げて自分の方を心配してくれる。
(まったく・・・)
そういう人なのだということは理解っている。何もかも自分だけで背負おうとして、たったひとりの家族であり、双子という絆を持つ自分にも心配掛けさせまいと、頼ろうとしてくれないということも。
それがひどくもどかしくて、そしてそんな兄を支え、包み込んでやれない自分の不器用さが悔しい。いや、まだ素直になり切れていない部分があるのだろうか。
(想う気持ちだけならきっと誰にも、兄さんにも負けやしねぇんだけどな・・・)
兄が自分を想ってくれるように、自分もまた兄のことを同じくらい、いやそれ以上に想っているのだということを伝えたい。
例え、ほんの少しでも―――
どこか心配げな表情で見上げているニールにライルはふっと優しく微笑み返すと、ほんのりと薄紅色に染まったその頬をそっと包み込む。触れたそこはやはり熱の所為で僅かに熱い。
だからなのか、冷たく感じるライルの手にニールは心地好さげにうっとりと目を伏せた。
「・・・何か食べれそうなもん、ある?欲しいもんあったら持ってくるから・・・」
やはりどこか気怠そうなニールにそろそろ休ませた方がいいだろうと、その前に薬と何か食べさせた方がいいだろうと思って、ライルは少し名残惜しく感じながらも触れていた手をそっと離して問い掛けた。
するとニールは伏せていた目をぱちりと開け――これも熱の所為だろう――僅かに潤んだ瞳を何か言いたげにゆらりと揺らめかせている。
その様子が何だかひどく艶かしくて、ライルは思わずどきりと胸を高鳴らせた。が、今はそれどころではない、と自分に強く言い聞かせる。あまりにも無節操すぎる、と。
しかしそんなライルの焦燥に気付くこともなく、ニールは離れていったライルの手を引き止めるように手を伸ばし、そして容易に捕まえられる。躊躇いがちに触れた手はやはり、熱かった。
「・・・いい。ライルがここにいてくれるだけでいい。何も要らない」
縋るような目で見つめられ、またどきりと鼓動が跳ねる。まさかそう言われるとは思ってもいなかったのだ。
熱の所為でどこか気弱になっているのだろうか、こんな甘える兄の姿をライルは今まで見たことがなかった。いつも凛としていて、自分を守ろうとしている兄の背中ばかりを見ていたような気がする。
それだけにどこか信じられないような、それでいて擽ったような嬉しいような、とても新鮮な気持ちだった。
兄に必要とされている。頼られている―――
たったこれだけのことがライルにはどうしようもないほど、何も言葉に出来ないほど嬉しくて堪らない。思わず目の奥がつんと熱くなった。
それほどに、嬉しかった。
「ん・・・わかった。ずっとここにいるから。兄さんのそばにいるから。心配すんな」
だから少し寝ろ、と縋るように引き止められていた手をぐっと握り返して微笑んでみせれば、ニールは安心したようにふわりと笑みを浮かべるとそのままそっと目を閉じた。そして間もなくすぅすぅと規則正しい寝息が聞えてくる。
そんな兄の姿に、ライルの心は何かあたたかいもので充たされていく気がした。
何も自分の独り善がりではなかったのだ、と思う。きっと兄も兄なりに自分を求め、必要としてくれていたのだと思うと言いようのない喜びが溢れてきて仕方がなかった。
だからずっとそばにいていいのだ、と思う。いや、元よりもう二度と離れる気はないけれど、それでも兄もそう望んでいるのだと思うと嬉しくて堪らなかった。
「兄さん・・・、ニール・・・」
いとしい、いとおしい兄。何よりも、世界の誰よりも強い絆を持つ片割れ。
もう、あんな思いは二度としたくないと思った。この身を引き裂かれるような、あんな思いは。
「ずっとそばにいる。もう二度と離れねぇし、離さねぇから」
だから兄さんも俺を置いて行こうなんてするなよ、許さねぇからな、と呟いて、ライルは静かな寝息を立てるニールの額に口吻をひとつ、落とした。
ずっとそばにいよう。そして寄り添って生きていこう―――
そう、心の中で誓いながら・・・





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