或る雨の日に



ぴちょん、と雫が滴る音がしたような気がして、ニールは手元に落としていた視線をふいと上げた。
するとまたぴちょん、と雫が何かを叩く音。
音の出所を探るように視線を窓へと向けてみれば、外はさぁさぁと静かに雨が辺りを濡らしていた。
その音の正体は、いつの間にか振り出していた雨が樋を伝って落ちる音だったのだ。
ああなるほど、とニールはその光景を目にして納得すると共にひとつ、深い息を吐いた。降り出しちまったのか、とまるである種の呆れをも含むように。
というのも、為すべきことを終え、アレルヤと共に永住の地として選んだのは、ニールが生まれ育った故郷であり、また失ってしまった家族が眠るこの地だったのだ。
この土地を選ぶに当たって、確かにニールの中には少なからずの葛藤があった。ここには幸せだった頃の良い思い出も、そしてそれを失ってしまった時の悪い思い出もあるからだ。
だがそんな逡巡するニールの背中を後押ししたのは、他でもないアレルヤ自身だった。
―――ぼくには帰る場所なんてところはないんです。だから、あなたにそれがあるのなら、少しでも帰りたいと思う心があるのなら、帰った方がいいと思う・・・それにあなたが育ったところならぼくも住んでみたい・・・。
そんなアレルヤの言葉もあり、結局ニールは――すべての躊躇いを捨て去ることは出来なかったけれども――再び懐かしくもあるこの地でアレルヤとふたり、これからの時間を過ごすことを決めたのだった。
そして小さな、しかしアレルヤとふたりで過ごすには充分な大きさの居を構えて約半年――ニールは元より、アレルヤもここでの生活にずいぶんと慣れてきているようだった。
彼には物事を素直に受け入れる柔軟性があるのだろう。この街の習慣や店の位置まですっかりと覚え、今じゃひとりで出掛けてしまうくらいだ。
そんなアレルヤの姿を思い浮かべ、ニールは柔らかい笑みを浮かべた。思わずいとおしい気持ちが募ってくる。
しかしその思いとは裏腹に、心の片隅にはまるでどんよりと重い色をした雲が広がる今の空のように晴れないでいた。
―――雨の日はどうにも気分が憂鬱になってしまう。
この土地は一年を通して雨がよく降る地だ。それはニールが以前に住んでいた時も、そして今も変わらない土地柄のひとつ。
そんな変わらなさが懐かしさと安心を与え、けれどもその変わらなさがニールの気分を滅入らせていた。
―――雨は大地の恵みと共に古い記憶をも連れてくる。
『まるでお空が泣いているようね・・・』
ふと、そんな言葉が脳裏を過ぎっていく。
そう言ったのは、まだ幼かった頃の今は亡き妹だ。
あの時もこうやって部屋の中から雨に濡れる外の景色をぼんやりと眺めている時だった。
けれど今はもう、隣のその姿は、ない。
不意に聞こえたあの可愛らしい声も、ただニールの耳の奥に残っていたものが再生されただけ。
改めて思い知らされたその事実が、ニールの胸をきゅうっとせつなく締め上げていく。
遠い日に失ってしまった両親と妹が再び還って来ることはないと理解っている。だが理解ってはいても、この不意に訪れた郷愁がどうしようも悲しくて、そして苦しくて。
だからニールはどうしても雨の日が好きにはなれなかった。

そんな気を紛らわすかのようにぱたん、と手にしていたペーパーブックを閉じると、ニールは掛けていたソファから気怠げに立ち上がって窓際へと歩み寄り、そしてそっとその桟に指を這わせた。
窓の外は雨がまださぁさぁと音もなく降り続いている。
ついペーパーブックに集中していたから気付かなかったのだろうか。窓から望む辺りはすっかりと雨に濡れそぼっていて、小さな庭にアレルヤが植えた草木たちは束の間の空からの恵みを喜ぶようにその枝葉を碧々と茂らせている。
その光景を見て、ニールはふとあの同居人が傘を持って出掛けたのだろうか、と不安を過ぎらせた。
紅茶の葉を切らせていたと、だから急いで買いに行ってくる、と慌てて出掛けて行ったアレルヤ。
確かに今日は朝から薄曇りで、空には鈍い色をした雲が広がっていたから雨が降りやすい天候であったことは察せるだろう。
だがあのアレルヤの様子では、それすらも忘れていただろう感が拭えない。しっかりしているようで、しかし実は所々抜けているところがあるのだ、彼は。
だからそんなアレルヤのことを思い、ニールは念の為に、とタオルを用意しておこうと踵を返した時だった。
ただいまっ、と幾分息の弾んだ声が玄関から響いたのを耳にして、ニールは慌てて部屋の扉を開けて顔を覗かせてみれば、そこには案の定しっとりと雨に濡れそぼったアレルヤが佇んでいる。微かに息が弾んでいたのは、きっと走って帰って来たからなのだろう。
僅かに肩を上下させながら、髪に付いた雨を払うように頭を左右にふるふると振るえば、やはりそこからいくつもの水滴が飛んでいくのが見えた。
「おかえり――、ってちょっと待ってろ」
玄関に佇むアレルヤにそう言い残し、ニールはぱたぱたと足早にバスルームへ向かうと大判のタオルをひとつ、いささか乱暴に掴んでアレルヤの元へと取って返す。
そしてニールの言葉通り玄関で大人しく待っていたアレルヤに掴んだタオルをばさりと被せると、少々乱暴な手付きでその身体に付いた水滴を拭い始めた。
「・・・ったく、傘くらい持ってけって・・・!」
「っ、ごめん。間に合うかと思ったんだ・・・」
つい小言のように言い募ってしまうニールの言葉に、アレルヤは申し訳なさそうに身体を小さくして言い訳をしてくる。
その姿が――よく形容されるように――まるで大きな犬がしゅんと項垂れているようで、ニールは俄かに抱いた怒りも忘れて思わずくすりと笑みを溢した。

その後、ニールに言われてバスルームへ向かったアレルヤはシャワーを浴びて身体をあたためると、さっそく買ってきた茶葉を使って紅茶を入れ始めた。
ふわりと優しい茶葉の香りが部屋の中に広がっていく。
その優しい香りはニールの心を少しずつ落ち着かせていってくれるようだった。
はい、と差し出されたカップを受け取り、そのままこくりと一口飲めば、じわりとそのあたたかさが身体を包んでいく。その感覚に思わずほぅ、と溜息が漏れた。
そんなニールの様子にアレルヤは目を眇めつつ、その隣に腰を降ろしてアレルヤもまたカップに口を付ける。
窓の外はまだ雨が降り続いていた。
「・・・止まないね、雨」
「ああ・・・」
ぽつりとアレルヤが溢した言葉に、ニールは言葉少なに頷く。
途切れてしまった会話の後には、ただ雨の雫が落ちる音だけが部屋の中に響いていた。
するとどれくらいの時間が経った後だろう。
それはとても長い時間だったのか、それともほんの少しの時間だったのか―――
不意にニールがその重い口を開いた。
「おれは・・・雨が嫌いだよ」
まるで心の底から吐き出すようにぽつりと呟かれた言葉に、アレルヤは静かに『うん』と頷く。あたかも『知っているよ』というように。
口にはしていないけれども、それでもニールがこの地に帰ることを躊躇っていたその理由を、アレルヤは何となく気付いていたのだろう。
ずっと、彼のことを見続けてきたアレルヤだから、こそ。
けれどそんなニールの心を知りながらも、『だけどね』とアレルヤは口を開いた。
「ぼくは好きだよ、雨」
「っ、」
思わぬ言葉だったのだろう、アレルヤのその告白にニールは信じられないといった体で目を瞠ると、思わず彼の顔を見返した。まさかアレルヤの口からそんな言葉が溢れるとは思ってもいなかったのだ。
だがそんなニールの気持ちとは裏腹に、見返したそこには穏やかに、そして優しい表情で自分を見つめる銀色の瞳。
そのあたたかさにニールは思わずどきりとする。自分をまっすぐに見つめるその瞳が、あまりにも優しさに溢れていたのだ。
すると、そんなニールを見てアレルヤはにこりと笑うと。
「だって、こんな雨の日は部屋の中が外の世界から切り取られたみたいでしょ?」
まるでニールとぼくだけ、ふたりだけの世界だ―――
そう臆面もなくさらりと告げるアレルヤの言葉に、今度は違った意味でニールは目を瞠る。と同時に、頬がかぁっと熱くなってくるような気がした。
「お・・・、っまえなぁ・・・」
思わずがくりと肩を落とし俯くと、呆れたような声が溢れた。
どうしてアレルヤはこんな気障な言葉を事も無げに、さらりと口にしてしまうのだろう、と思う。いや、きっと彼自身、そういった思惑はまったくなく、ただ自分の思ったことを素直に口にしただけなのだろう。
その証拠に項垂れたニールの様子に、アレルヤは『えっ!?ぼく、何か変なこと言った?』と慌てふためいている。
そんなアレルヤの態度がおかしくて、今度はくつくつと笑いが込み上げてきた。どうして彼はこんななのだろう、と。あんなことを言っておきながら、どうして今さら慌てふためくのだろうか、と。
だがそれがアレルヤなのだ。
そんな彼は出逢った頃から少しも変わってなくて、そしてそんなところがやはり変わらずかわいいと思う。そしていとおしい、とも。
だからきっと惹かれたのだろう。どこまでも純粋で、まっすぐな彼に。そしてすぐ後ろ向きに考えてしまう自分に前を向くよう、背中を押してくれるアレルヤに。
「・・・そう、だよな」
未だ込み上げる笑いを噛み殺しながら、ニールはそう呟いた。
アレルヤの言うとおりだ。
何も雨の日は悲しい思い出だけを連れてくるわけじゃない。彼の言葉を借りるなら、雨はふたりだけの時間を、そして世界を作ってくれるのだ。
そう考えれば、心に掛かった重い雲がどこか晴れていくような気がした。
「ニール?」
「ん・・・なんでもねぇ。そうだよな、アレルヤの言うとおりだ」
不思議そうに名前を呼ぶアレルヤに、何でもないと首を振って返すと、ニールは何かを吹っ切ったようににこりと笑う。
そして『サンキュ』と小さく呟くと、未だに自分をまっすぐ見つめるアレルヤの唇にそっと己のものを触れ合わせた。
おまえのおかげで、どうやらこれからは雨の日が好きになりそうだよ、と心の中で呟きながら―――





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