風邪を引いた超兵の話
―――超兵でも風邪を引くんだね。
今朝からベッドの住人と成り果てているアレルヤがふと、そんなことをぽつりと溢した。
外を吹く風が身を切るように冷たくなった、冬のある日の昼下がり。
ぽかぽかとまろやかな陽の光が射し込むこの部屋は、午前中の慌ただしさがまるで嘘のようにしんと静けさに包まれている。
その所為か、アレルヤがぽつりと溢したその呟きもすぐに静寂の中へと飲み込まれ消えていった。
実のところ、数日前から何となく身体の不調を端々に感じてはいたのだ。
しかし大したことはないだろうと、何しろ自分は超兵なのだからこれくらいと、いっそ過剰にも取れる思い込みで高を括っていたアレルヤだったのだが、けれど今朝になって起きようとしたところ、そんな妙な思い込みとは裏腹に――この場合、案の定と言うべきなのだろうか――発熱していた。
脳量子派の干渉とはまた違う頭の痛みに加えて、発熱による全身の倦怠感。あと咽喉も少々痛い。
初めて体験する身体の不調の数々を訴えるアレルヤに、同居人は考えるまでもなく『風邪だ』と言い切ったのは、今から数時間前――まだ充分に朝と呼べる時間帯のことだった。
ふ、と普段に比べて些か熱の篭った吐息を吐きながら、アレルヤは全身を襲う倦怠感に思わず自嘲気味な笑みを浮かべる。
人為的に弄られ、戦うことだけに特化した忌々しい身体ではあったけれど、それでも丈夫なところだけは唯一自慢の出来る、取り柄だと思っていたのに。
―――なのに風邪など引き、剰え発熱までしてしまった。
確かにアレルヤ自身好意的には思っていなかった身体だけれども、それでも何となく裏切られたような気分になるのは気の所為だろうか。
だからなのか、風邪など引いてしまった情けない身体に対してアレルヤは、たとえ自分を卑下するような揶揄の言葉ひとつでも吐かずにはいられなかったのだろう。
けれど呟いたそれは、別段他の誰かに応えを求めるようなものではなく、ただの独白に過ぎないつもりだった。
「ああ?」
なのに声が返って来た時には、正直言って驚いた。熱の所為で少しばかり重くなった目蓋をぱちりとひとつ、瞬いてしまうくらいに。
アレルヤの呟きからほんの少しの間を於いて、すぐ側から上がった胡乱げな声。いや、胡乱げというよりはどこか不機嫌そうな、か。
その声は今ではすっかり聞き慣れたものだし、その主だってもちろんアレルヤはよく知っている。
けれど、それでも驚いてしまったのは、ふと漏らしてしまった些細な呟きが聞こえてしまったのかということに加え、まさかそこに彼が居るとは思わなかったのだ――いや、実際彼は熱を出したアレルヤを看病する為にずっとそこに居たのだろう。
ただアレルヤが発熱の所為で注意力が散漫になりがちだったのと、また飲まされた薬の副作用のおかげで浅い眠りを繰り返していたことも相俟って、彼がずっとそこに居てくれたことをうっかりと失念していただけなのだ。
だから『あ、そうだったんだ』と思ったところでもう遅い。
アレルヤがぽつりと小さく漏らした呟きは、加湿器の作動音すら聞こえてきそうなほどの静けさに包まれた部屋では存外大きく響いてしまったらしく、隣で静かにアレルヤを看ていたニールの耳にもちゃんと届いてしまったらしい。その証拠が先程のどこか不機嫌そうな声だ。
加えて『あ、しまったな』と少しばかり熱に浮かされた頭で溢した言葉の迂闊さを後悔しても、一度口にした言葉を再び咽喉の奥に仕舞うことなど出来るはずもなく―――
ぱたり、とアレルヤの耳元で何かが閉じられた音がする。おそらくニールが看病の片手間に読んでいたペーパーブック辺りだろう。そして呆れたような溜息が、ひとつ。
その様子から、ああこれは自分の不用意な言葉が彼の琴線に触れてしまったのだろうな、とやはりどこか霞が掛った頭でアレルヤはぼんやりと、まるで他人事のように思った。
―――けれど、やはり向けられる矛先はアレルヤ本人で。
「ったく、当たり前だろう!超兵だろうが何だろうが、人間であることに変わりはねぇんだ。人間なら誰だって風邪のひとつくらい引く。それがたとえ超兵だったとしても!」
覗き込むようにしてアレルヤの瞳を真っ直ぐに見つめ、ニールは口調どおりの険しい表情でそう言い聞かせてくる。まるで『何度言ったら解かるんだ』とばかりに――けれどいつもに比べてその口調が若干抑え目なのは、やはり熱を出したアレルヤの身体を慮ってのことだろうか。
確かにアレルヤとニールの間では、こういった遣り取りは今回のことに限ってのことではなかった。
何しろアレルヤはその身体への忌わしさや嫌悪もあってか、事有る毎に『超兵だから』などとつい自身を貶めるようなことを口にするのだ。
けれどニールはそんなアレルヤの自身を卑下るような言葉が嫌いだった。何が違うんだ、と。同じ人間じゃねぇか、と。
自分から見れば超兵だろうが何だろうが、アレルヤに変わりはないじゃねぇか、と。
それはこの数年来ずっと繰り返され続けているのだが、しかしこの遣り取りはきっと『超兵』というものに対するアレルヤの考え方が根本的に変わらない限り、決して終わることはないだろう。
だがその裏で、アレルヤはニールにそう言って貰えることに安心を覚えていたのだ。大丈夫だ、と。自分はまだ彼に嫌われていない、と。
―――それはきっと、仄暗い感情。
決してニールは言えない、アレルヤの賤しい部分だ。今まで愛情というものに餓えていた分、時折そうして確かめたくなるのだろう。
そうまでして彼の愛情を確かめようとする自分の醜さが時々ひどく嫌になる。
けれど、それでもアレルヤはそんな自分を止めることも止めようとすることも出来なかった。
「・・・うん、ごめん。ニール」
そうしてニールの愛情を確認して素直に謝れば、彼は『よし』と笑ってアレルヤの頭を掻き乱すように撫でてくれる。
その手がひどく心地好かった。ひょっとしたらこうして貰いたいからこそ、自分はあんなことを口にするのかもしれない、と思う。
だとすれば自分はずいぶんと甘えただな、とアレルヤはふとそんなことを思ってしまう自分に対して胸の内でこっそりと呟いた。
すると。
「―――っと、結構汗を掻いたな。気持ち悪ぃだろ?一度着替えておくか」
そう言ってニールは俄かにてきぱきと動き出す。
どこかへ行ったと思ったらすぐに戻って来て、横になっていたアレルヤの身体を優しく抱き起すと着ていた寝間着を脱がせられた。
そして温めたタオルで身体を丁寧に拭かれ、その後乾いたタオルでもう一度。
拭き終わった後洗い立ての寝間着を着せられて再び横にさせられると、今度は額に貼った冷却シートを新しいものに代えられた。
その冷たさに、思わず身体がびくりと跳ねる。けれど同時に心地好くもあった。おそらくまだ熱があるのだろう。
それにしても、と流れるような彼の動きには一部の隙もないようだと感心する。きっとアレルヤではこうはいかないだろう。
ある意味尊敬の念を込めて彼の動きを目で追っていれば、そんなアレルヤの視線に気付いたのか、ニールは『どうした?』と優しい笑みを浮かべてことりと首を傾げている。
何だかひどく、泣きたくなるほどに――幸せだと思った。
不意にじわりと熱いものが込み上げてくる。これも熱の所為なのだろうか。
「アレルヤ?何か欲しいものでもあるのか?」
するとニールはそんなアレルヤにもう一度ふわりと笑ってそう訊ねてくる。そっと頬に添えられた、いつもなら自分より体温の低い彼の手がひやりとしていて、ひどく心地好かった。
その心地好さに、すっと瞳を細める。
「アレルヤ?」
「―――ううん、何でもない。・・・何か今日はずいぶんと甘やかしてくれるんだね」
不意に込み上げたものを誤魔化すように、わざと戯けてそんなことを言えば、ニールは一瞬呆気に取られたような表情をした後、すぐに屈託のない笑顔を浮かべてもう一度アレルヤの頭を乱暴に掻き乱してきた。
「んだとぉ?それじゃおれがいつも優しくないみたいじゃねぇか!」
「ぅわ・・・っ、ちょ、ごめん!そうじゃなくて・・・っ、」
「はははっ、冗談だよ。わかってるって。まぁ病人に優しくするのは当たり前だからな。そんで、甘えられるのも病人の特権ってやつだ」
だから今日は存分に甘えておけ、な?とまた優しい笑みを浮かべ、ニールはアレルヤの熱で火照った頬にちゅ、と口付けを落としてくる。
まるで羽根が触れるかのようなそれは、ひどく擽ったかった。触れた頬も、そして心も。
「・・・・・・うん」
そうしてアレルヤははにかむように頷きながら、こんな風に過ごせるのなら、たまには風邪を引くのも悪くない――そんなことをこっそりと思ったのだった。
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