君と迎えた雨の朝は *アレロク(ニル)*
沈んでいた意識がふわりと浮上するようにして、不意に目が覚めた。
それは何か目を覚ますような特別な外的要因があったわけでも起こったわけでもなく、ただ何の前触れもなく――そう、自然と目が覚めたのだ。
そのあまりにもの突然さにぱちりと瞬きをひとつする。意外にも頭の中ははっきりとしているようで、これはまだ夢の中の出来事というわけではないのだろうと思った。
―――何時頃なのかな?
枕に頭を付けたまま辺りの様子を窺えば、頭上のカーテンの隙間から多少の光は覗いているけれど、それにしても何処か薄暗い感じがする。
そのままぐるりと見渡すとちょうど視界に入る位置に置いた時計が目に留まり、デジタルで表示された時刻を確認すれば何時もの起床時刻をほんの少しだけ廻った時間を指していて、そこで初めて昨夜アラームをセットし忘れたことを思い出した。
だが今日は――というか、今日も――数日前からの休暇で地上に降りているところだから、多少の寝坊くらい誰に文句を言われることはないし、特にこれといって困ることもないだろう。
となれば、この機会に二度寝というものを楽しんでみるのもいいかもしれない。
そうして再びゆっくりと目を閉じようとしたアレルヤの耳が、不意にぱたぱたと何かを叩く音を拾う。
幾つかの細かいものが不規則に落ちて立てる、小さな音。
その、注意していなければ聞こえないような微かな音に耳を澄ませれば、どうもそれは窓の外――このアパートメントのすぐ裏側に植えられている街路樹の葉が音源のようだった。
ということは、どうやら外では雨が降っているのだろう。
―――ああ、だからか。
音の原因を知ってアレルヤはひとり納得する。身体がどこか気怠い感じがするのは、きっとその所為だと思ったからだ。
だがそれはそもそもアレルヤの思い違いで、本当は今アレルヤの腕の中で規則正しい寝息を立てている彼に起因している――いや、その言い方では語弊があり、彼が聞けば自分の方が被害者だと訴えるだろう。
というのも、昨夜はずいぶんと遅い時間まで彼を抱いていた。抱き続けていた。
それこそ抱き潰してしまうのではないかという勢いで。
久し振りに過ごせるふたりきりの時間に、つい歯止めが効かなかったのだ。それだけ彼に飢えていたのだろう。
もう無理だと、出ないと――それこそ涙を浮かべて懇願する彼を、それでもあと一回だけと、お願い、と繰り返し宥めては抱き続け、最後は気を失うようにして眠ってしまった彼を解放したのはもう夜明けに近い時間だった。
おかげでアレルヤ自身の身体も何時になく気怠さを残してはいるけれど、でも心身共にひどく充たされた気分だ。昨夜の艶美な彼の嬌態を思い出せば、ひとり自然と笑みが浮かぶ。
そのまま視線を移した腕の中の彼はやはり疲労の所為かぐっすりと眠っていて、眦に残る涙の後に不意にどうしようもなくいとおしさが込み上げてきた。
改めて彼のことが好きだ、と思う。どうしようもなく彼のことが好きだ、と。
が、起きたらきっと非難の嵐だろうと思うと、アレルヤは思わず苦い笑みを溢さずにはいられなかった。
―――さて、彼の機嫌を取るにはどうしたものか。
アレルヤは甘い気分のままそんなことを考える。本来なら憂鬱になるだろうはずのそれも、彼に関することとなれば何故か楽しいことになってしまうのだから不思議だ。
そうして彼の寝顔を眺めながらあれこれと思い巡らせた結果、とりあえずは朝食を用意することを考え付いた。
改めて時刻を確認すれば、このセーフハウスでもあるアパートメントの、すぐ近くにある彼お気に入りのベーカリーはもう開店している時間のはずだ。
そこで彼の好きなパンを幾つか買って、そして彼のお気に入りの茶葉でミルクティを淹れて起こしてみよう。
起きてすぐはやはり文句のひとつやふたつ、いや、それ以上言われてしまう可能性は少なくないけれど、しかし用意したそれらに多少なりとも機嫌を直してくれるかもしれない――と期待したい。
外は雨が降っているようだから、その辺りはほんの少しだけ億劫に感じないわけでもないが、でもこの場合は致し方ないだろう。
だからそうと決まればさっそく、とばかりにアレルヤは未だ規則正しい寝息を立てる彼の髪にキスをひとつ落とすと、起こさないようにそっとベッドを抜け出したのだった。
顔を洗い、着替えを終えて玄関の扉を開けると、外はアレルヤが思っていたよりも強く雨が降っていた。
小雨程度なら傘も差さずに走って行けばいいかな、などとつい不精なことを考えていたけれど、しかしこの様子ではどうにも傘は必要だろう。
だから仕方ないなと、確か以前に買ったまま置きっぱなしになっているものがあるはず、と一度開けた扉を再び閉めて振り返れってみれば、そこにはまだぐっすりと眠っているはずと思っていた彼がこちらを向いて立っていて、アレルヤは思わず心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらい、驚いた。
「ロッ―――」
「どこに行くんだ」
ロックオン、と彼のコードネームを呼ぼうとしたアレルヤを遮るようにして、目の前の彼はそうアレルヤに問うてきた。
元々寝起きの機嫌があまり良くない彼だけれども、今朝は殊更に悪そうな声色だ。さらには昨夜の過ぎた行為の所為かその声も掠れ気味で、立っているだけの姿も見るからに気怠く辛そうだった。
「―――大丈夫?ロックオン」
だから心配になって思わずそう声を掛けたアレルヤの言葉に、ロックオンはさらにぶすりとした表情になる。本当に今朝の彼は機嫌がよろしくないようだ――その要因に心当たりは、アレルヤにはあり過ぎるほどにあるけれども。
そんなアレルヤの心情を見透かすように、彼はさらに言葉を重ねる。
「眠い、怠い、腰が痛い。身体中、全身隈なくあちこち痛い」
明らかに昨夜の自分の行為を咎めるロックオンの言葉に、アレルヤは――ある程度予測はしていたけれど――耳が痛くて思わず苦笑いを浮かべた。
が、彼が言いたいのはそれだけではないようで、もう一度『どこへ行くんだ』と繰り返し問うてくる。
その問いにアレルヤとしては別に疾しいことは何ひとつないのだし、素直に『そこのベーカリーまで行ってくるよ』と答えれば良いだけなのだが、しかし何故彼がそこまでして繰り返し訊ねてくるのかその真意が理解らずに思わずぱちりと瞬きをひとつした。
するとロックオンは寄った眉間の皺を一層深くする。
そして――昨夜散々泣いた名残か、それとも睡眠がまだ足りていない所為か――僅かに赤みが残る瞳でアレルヤを強く見据えると、こう言ったのだ。
「―――目が覚めた時におまえが隣に居ないと不安になるし心配するだろうが。どこかへ行くんなら行くと言ってから出て行け」
「っ―――」
ずはりと言い放った彼のその言葉に、アレルヤは思わず声を詰まらせる。まさかロックオンがそんな風に思っているとは露ほどに考えてもいなかったのだ。
改めて彼の姿を見れば、とりあえずとばかりに下衣のスウェットだけを履いてきたかのようで、出掛けようとしている自分を追い掛ける為に相当慌てたのだろう。
返す言葉がなかった。
確かに、これがもし逆の立場だったら自分も同じことを思ったかもしれない――そう考えると尚更に。
彼の機嫌を取る為に良かれと思ったことがまさか裏目に出るとは思わず、そんな自分の迂闊さにアレルヤは軽い自己嫌悪を覚えてしまった。どうして何時もこうなんだろう、と。何時も自分だけ勝手に空廻ってばかりだ、と。
だから若干の落胆と反省を込めて『ごめんなさい』と謝れば、ロックオンもアレルヤのその気持ちを汲み取ってくれたのか溜息をひとつ吐くと『で?どこへ行くつもりだったんだ?』と三度同じことを訊ねてくる。
その口調が先程の強いものから幾分か優しいものに変わっていて、アレルヤは思わずほっと胸を撫で下ろすと同時に肩の力を抜いた。自分でも気付かない内に身体が強張っていたようだ。
どうやらこの件に関しては彼も機嫌を直してくれたらしい――最たるものはまだまだこれからだけれども。
だけど何処か張り詰めていたものが消えて言葉を発しやすくなった雰囲気に、アレルヤは漸く彼の問いに答えるべく口を開いた。
「すぐそこのベーカリーへ行こうと思ってたんだ」
貴方も好きだよね?と小首を傾げて訊ねれば、ロックオンは数瞬考えた後――アレルヤが言うベーカリーがどんなものだったかを思い出したのだろう――何処か渋々といった体で頷いている。
―――その様子だと、ひょっとしたら自分の思惑などお見通しなのかもしれない。だけどそれを否定出来ないところがまた、悔しいといったところなのだろうか。
そんな普段とは違う、まるで子供のような一面を見せる彼がどうにもかわいらしく思えて、アレルヤは思わずくすりと笑みを浮かべた。
「何かリクエストはある?」
買ってくるよ、と未だ憮然とした表情のロックオンに続けてそう訊ねれば、彼はしばし悩む素振りを見せた後―――
「クロワッサン――あとブリオッシュにマフィン。フレンチトーストも食いてぇしベーグルも食いたい。あ、ベーグルはクリームチーズ系な。あとはクイニーアマンと・・・」
ずらずらと並べ立てる彼に、アレルヤは思わず目をぱちくりと瞠る。本当にそんなにも食べる気なのだろうか。
「―――じゃ、頼んだな」
けれどそう言って何処かしてやったり顔のロックオンの表情を見て、いや、これはただの仕返し――嫌がらせなのだとアレルヤはすぐに理解った。それだけの量をこの雨の中、傘を片手に帰って来るなど想像しただけで骨が折れそうだ。
何より彼は――昨夜のこともあって――アレルヤが否と言えないことを理解っていて言っているのだから尚更性質が悪い。
だからといって敢えて『NO』と言えるはずもなく、アレルヤは深い深い溜息をひとつ吐くと『わかった』と応えるほかなかった。
「じゃ行ってくるね」
「おう、気を付けてな」
にやにやとした笑みを浮かべながら送り出してくれるロックオンに、アレルヤは再び深い溜息を吐く。おそらく――いや、きっと今日は一日ずっとこんな調子なのだろう。
―――元はと言えば自分が蒔いた種なのだけれども。
仕方がないよね、とアレルヤは自分を慰めつつ、けれど込み上げてくる甘い気持ちと緩む頬を彼に見られないよう、扉を開けて雨の降る外に一歩踏み出した。
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