君と迎えた雨の朝は *ハレニル*
ぴちゃん、と滴が叩き付けられる音が聞こえて、緩々と浮上しかけていた意識を一気に引き上げた。
それに呼応するかのようにゆっくりと目蓋を持ち上げれば、闇だけしかなかった世界に色が突然広がっていく。
その様に、『ああ、もう朝か』と無意識に思った。
するとまたしばらくしてぴちゃん、と頭上で跳ねる音が響く。
それを再び耳が捉えて、先程から聞こえる水音の元を辿るように僅かに頭を動かしてみれば、視線の先にはこの部屋にひとつだけある大きくも小さくもない窓。
その窓に掛かる薄緑色の遮光カーテンの隙間から覗く光は朝の割にはひどく頼りなげで、外の天気が芳しくないことは容易に想像することが出来た。
さらには耳をじっと澄ましてみれば、さあさあと静かに降る雨の音。
どうやら先程耳が捉えた音は、屋根を伝って出来た雨垂れた落ちた音だったらしい。
そこまで推察し納得したハレルヤは、彼には似つかわしくないような物憂げな溜息をひとつ、吐いた。
―――ったく、今日は休みだってのについてねぇな・・・。
しかし普段の彼ならたとえ久し振りの休日に朝から雨が降っていたとしても、ここまで落胆することはまずないだろう。確かに多少なりとも『鬱陶しいな』と思うことはあれど、特にそれ以上の感想を持つことはないはずだ。
けれど珍しくも今朝の天気に――僅かながらも――不満を滲ませているのは、密かに計画していた予定があったからだった。
実はせっかくの休日ということもあって、天気が良ければ久し振りにバイクを走らせようと思っていたのだ。
ツーリングはハレルヤの数少ない、いや、唯一と言ってもいいほどの趣味でもある。
そんな唯一の趣味を楽しむ中でも、身を切るような冷たい風の吹く冬も終わりを告げ、あたたかい陽射しが降り注ぐようになった今の時分――特にあちこちに芽生え始めた新緑は目に眩しく、また若い緑が溢れる景色は吹く風にさえ瑞々しさを纏っているようで走るには最高の季節なのだ。
だから、とほんの少しばかり楽しみにしていたのに、天候が雨ではそれも叶わない。
ましてや密かに立てていたその計画を、今朝になって初めて今もまだ腕の中で規則正しい寝息を繰り返している存在に明かしてやり、そして驚かせてやろうと思っていただけにハレルヤの落胆は大きかった。
仕方ねぇなぁ、とハレルヤは腕の中の彼を起こさないように小さく溜息を吐く。こればかりは誰にも文句を言うことが出来ない。
如いて言うならば、昨夜の内に今日の天気をチェックしておかなかった自分が悪いのだろう。
だがそもそもそんなところに気を遣わないのがまた、ハレルヤでもあった。
―――どうすっかなぁ・・・。
せっかく立てていた予定が台無しになり、ハレルヤはぼんやりとこれからのことを考える。
別段、自分ひとりならば特に何かを決める必要もないし、何時ものように気侭に過ごせばいいだろう。
けれど彼が居るとなればせっかくの時間、無作為に過ごすのも何処か勿体無いような気がした。
だからといって彼――ニールと過ごす時は、何時も何か予定を立てているというわけではない。だらだらと過ごす時だってある。
なのに今日に限ってそんなことを考えるのは、予め立てていた予定が狂ったということもあるし、何より一緒に過ごすのが久し振りな所為なのかもしれない。
そんなことを考えながらふと時計を見れば、時刻は休日の朝にしてはまだ早い時間で新たに違った予定を立てるにしてもまだまだ余裕はありそうだ。
焦ることはねぇか、と自身に言い聞かせつつ視線を腕の中の存在へと向ければ、剥き出しになった白い肩が不意にふるりと震えた。おそらく寒いのだろう。
確かに日中はずいぶんとあたたかくなったとはいえ、まだまだ朝晩は肌寒い日が多い。加えて今朝は雨が降っている所為で、何時もより少しばかり気温が低いのかもしれなかった。
だからハレルヤはその寒そうな肩が隠れるまでシーツを引き上げると、まるで彼の身体ごとあたためるかのように腕を廻し、そっと抱き締める。
触れた彼の肩はなるほどひやりとしていて、ずいぶんと冷えてしまったようだ。風邪を引かなければいいが、と思う。
そうしてさらに熱を分け与えるかのように強く抱き締めれば、くるりと巻いた亜麻色の髪が鼻先を掠め、ニールの香りが一段と強くなる。
間近で嗅ぐ久し振りのその香りに、ハレルヤは堪能するかのようにすんとひとつ大きく息を吸い込んだ。
―――本当に久し振りだった。
こうするどころか、顔を合わせることさえも。
何の因果か互いが互いに忙しく、ここ最近は休日さえ侭ならないほど仕事に忙殺される日々だった。
たとえ運良く休みを?ぎ取れたとしても、片方は仕事といった具合で、ずっと擦れ違ってばかりだったのだ。
こんなことはハレルヤとニールがこの関係――所謂恋人という関係になってからは初めてのことで、仕事が忙しいばかりか会えないとなると尚一層ストレスが溜まる。
確かに時間を見付けては携帯で遣り取りをしていたから声はそれなりに聞いていたけれど、やはり顔を見る、身体に触れる、体温を確かめるのとは全然違うのだ。
そんな日々の中で先に我慢の限界が来たのは――やはりというべきか――ハレルヤの方だった。
一昨日、携帯越しの会話の中でニールが今日休みだと知ったハレルヤは昨日、強引に休暇を?ぎ取って来たのだ。急ぎのものは無理矢理に片付け、後はどうにでもなれ!とばかりに。
その分休暇の翌日――つまりは明日――はどうなることか、今から考えると若干頭が痛いわけでもないが、しかしそれも知ったことではない。
兎にも角にも、ニールに会いたくて仕方がなかったのだ。
けれどふとそんな自分を意外に思う、冷静な自分がいる。たかだか恋人にしばらく会えないぐらいで、自分はこんなことをする人間だっただろうか、と。
今までの自分はよく言えば淡白、悪く言えば無頓着な人間だったはずなのだ、何に関しても。恋だの愛だのに関しても。
なのに彼だけは違った。ニールだけは特別だった。
それがどうしてなのかはハレルヤ自身にも理解らない。理解らないけれど、説明の出来ない何かに突き動かされるようにして昨夜、仕事が終わったその足でバイクを走らせ、そしてこの部屋に辿り着きニールを抱いたのだった。まるで飢えた渇きを癒すかのように。
彼の白い首筋に残る紅い痕はその証拠だ。衝動に駆られるままにそれを散らせた。
その自分が残した紅い軌跡を見つめながら、やっぱりこいつだけは特別なんだよなぁ、と思う。
そしてそう思ってしまうほどに自分はニールに惚れているのだと、溺れているのだと思うと、ハレルヤは自嘲的な笑みを溢さずにはいられなかった。
しばらくの間会えなかった時間を埋めるようにその寝顔を見つめていると、不意に腕の中の存在がもぞりと動く。
それに気付いて抱き締めていた身体を少し離し様子を窺っていると、長い睫毛がふるふると震え、やがて目蓋の奥から蒼碧色の瞳がゆうるりと姿を現した。どうやら目を覚ましたらしい。
「―――れるや?」
「おう」
舌足らずな口調で自分の名前を呼ぶ彼に、ハレルヤは短く応える。声の調子からするに、まだ完全に目は覚めきっていないようだ。
―――まぁ昨日は遅くまで放してやんなかったからな。
眠くて当たり前か、とまだ夢現でいるニールの頬に掛かった髪を優しい手付きで払ってやれば、それが擽ったかったのかまるでむずかる子供のように額をハレルヤの胸に押し付けてくる。
「・・・・・ねみぃ」
ぽつりとそう漏らすニールに、ハレルヤは『やっぱりな』と思わず笑みを溢した。
連日の仕事で疲れている上に、昨夜はそんなこともすっかり忘れてつい無茶をしてしまったから、そう言われてしまっても仕方がないだろう。責任の一端は少なからずハレルヤにもある。
「―――ああ、まだ寝てろ。今日は生憎の雨だ、ゆっくりしようぜ」
だから囁くように耳元でそう言えば、『ん・・・』と短い返事が聞こえたかと思うと次の瞬間にはもう深い寝息を立てていた。
そんなニールの様子に思わず苦笑いが溢れる。
けれど同時に、どうしようもないほどのいとおしさも込み上げてきた。
普段では絶対抱かないようなその感情に、やっぱりこいつだけは特別なんだな、とハレルヤは改めて強く思い知らされたような気がして、何だか少し擽ったかった。
―――さて、どうすっかなぁ・・・。
再び眠りに就いたニールの寝顔を眺めながら、ハレルヤはひとり胸の内でごちる。
実を言うと、いろいろと考えてはいたのだ。
近くのレンタルで古い映画でも借りて来て見るのもよし、何処か近場のショッピングモールにでも行って当てもなくぶらつくのもよし。ああそう言えば、人には『飯はちゃんと食え』と小煩いくせに自分のこととなると途端に無頓着になる彼の為に、買い出しに行って何か手の込んだものでも食わせてやるのもいいな、などと考えていたのだ。
だがこの調子では、それも少し考え直す必要があるだろう。
それに何より、自分たちはここ最近仕事に追われていた所為でひどく疲れている。
―――ならば身体をゆっくりと休めるのもひとつの選択か?
などと考えていると、不意に眠気が襲ってくる。やはり自分でも気付かない内に疲れが溜まっていたのか、それともニールに釣られたのだろうか。
―――でもまぁ、それも悪かねぇな・・・。
しばらくつらつらと考えていたハレルヤだったが、ふとそう結論を出すと改めてニールを抱き締め直し、襲い来る睡魔に身を委ねたのだった。
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