寄せては返す波の如く
それは、些細なきっかけ。
ある日勤務先の本屋で1冊の絵本を見つけた。
それはとても綺麗な色彩で描かれたもので、おちびたちに読んでやるのにいいなと思ったのは本当だけど、俺自身がかなり気に入ってしまったのも事実で。
あいつらも気に入ってくれるといいけどな・・・・・。
そう思って買って帰った夜、恒例になった就寝前の読み聞かせで読んでやれば、二人は夢中になって描かれた絵を覗き込んでいた。きれいだねー、すげーなー、と感嘆の声を上げて熱心に眺めるおちびたちを見て、あぁ買ってよかった、と思ったのは夜のこと。
でもまさか、翌朝に二人があんなことを言い出すなんて、そのときの俺はこれっぽっちも思ってなかった。まだまだあいつらのことをわかりきってねぇのかなぁ。
「「うみにいきたい。」」
絵本を買って読み聞かせた日の次の朝。
起きてきた小さな兄弟は、その絵本を胸に抱えて朝メシの用意をしている俺に口を揃えてそう言った。
「「・・・・・は?」」
フライパン片手にアレルヤとハレルヤの言葉を聞いた俺の顔は、さぞかし間抜けな顔をしていたと思う。ていうか、聞き返した声が既に間抜けな声を発していた。
そしてこれまた珍しく(明日雨が降るんじゃないか!?)起こされる前に起きてきていたライルが、読んでいた新聞から顔を上げて俺と同じく素っ頓狂な声を上げていた。
「なんでまた急に海なんて・・・・・」
と事情を知らないライルがおちびたちに訊ねると、今度はライルの元へと行って、
「ろっくおんがかってくれたこれー。」
「きのうのよる、よんでもらった。」
と差し出された絵本の表紙には碧く広がる海が描かれていて、それを見て得心がいったライルは、ちらりと俺に文句を言いたげな視線を寄こすのに、俺は返事をする代わりに肩を竦めた。あぁ、おまえ、最近また仕事忙しいって言ってたもんなぁ。でもしょうがねぇだろ、まさかそんなことをこいつらが言い出すとは思ってなかったんだから。
「ねぇねぇ、らいるのこんどのおやすみはいつ?」
「うみにつれてけよ、なー。」
アレルヤとハレルヤの中では、次のライルの休みは海に行くことに決定しているらしい。二人の言葉に思わず苦笑いが零れた。まぁ、時期的にはギリギリ間に合う感じだけどな。
その問い掛けに、ライルはあーだのうーだの言葉にならない声を出していたが、キラキラと期待に満ちた二人の視線に負けたのか、がっくりと項垂れた後、
「・・・・・近いうちに休みが取れるようにするよ。」
と消え入りそうな声で呟いた。結局のところ、ライルもあいつらには弱いってことか。
わーい、やったー、と口々に喜ぶおちびたちを見て、良かったな、と思う反面、肩を落とすライルに、悪いな、と心の中でそっと謝った。
その出来事から次の次の日曜日。
俺たちはアレルヤとハレルヤのご希望通り、海へとやって来た。
あれから毎朝毎朝おちびたちはライルに、おやすみまだ?うみはいつ?と忘れることもなく繰り返し訊ねていて、ライルもまたそんなおちびたちの希望に少しでも応えてやろうとしてくれたのか毎日残業の嵐だった。
おかげでやっと休みの取れた今日、ライルの眼元にはそりゃあまぁ立派な隈が出来ていて。後から後から出てくる欠伸を噛み殺すのに必死の様子だ。
少しでも休ませてやろうと行きの運転は買って出たけれど、この調子だと帰りの運転も俺かなぁ。
近場で綺麗なところを、と探せばやっぱり人気のある海水浴場になってしまったけれど、時期が時期なのか繁盛記を思わせるほどの人だかりはなかった。といっても、やはりまだ暑いし世間は夏休みだからそれなりの人はいるけれど。
砂浜に下りてみれば、眼前は一面碧い海。寄せては返す波の音。海独特の潮の香り。
「うわー。」
「すげー。」
と広がる景色に眼を丸めたおちびたちが口々に、その雄大さに呆気に取られて立ち尽くしていた。その姿が面白い・・・・・というか、まぁなんとも愛らしい。
「どうだ?これが、おまえたちの来たがっていた海だぞ?」
「すごいねー!」
「でけー!」
感想を訊ねてやれば、きゃっきゃと喜んで返ってくる返事に思わず笑みが零れる。
あの時、急に海に行きたいと言い出したときは、さて困った、と思ったものの、今のこの二人のはしゃぎ様を見れば連れてきて良かった、と心から思う。きっとライルもそう思ってるんだろう、ちらりと横目で見たライルの顔も優しげに微笑んでいた。
思えば、二人が知っているのは保育園のビニールプールくらいで、レジャー施設なんかのプールにすら連れて行ってやらなかった。少しでもいろんな経験をさせてやりたいとは思うものの、なかなか出来ないのが現実で。こんなことならもっと早くに連れてきてやれば良かった、と少し反省。
おちびたちをライルに任せて俺は近くの海の家からパラソルを借りて戻ってくると、二人にせがまれたのかライルは息を切らしながら浮輪を膨らませていた。
はやくはやく!と急かされて一生懸命に息を吹き込んでいるものの、一向に浮輪は完全な姿を見せる気配はない。結局、俺は見るに見かねてライルに交代することを告げた。
御役御免になったライルは、助かったという表情で額にうっすらと汗を滲ませている。・・・・・おい、ちょっと運動不足気味なんじゃね?
(きっと寝るつもりなんだろう)荷物番を買って出たライルを置いて、俺はおちびたちを連れて海辺へと向かうことにした。
まさにギラギラという形容詞がピッタリなほどの日差しに、足元の砂はすっかり熱されていて熱い。熱いってもんじゃない。隣でおちびたちも、あついー!と叫んでぴょんぴょんと跳ねている。でもそれすら楽しそうだ。
なんとか熱された砂浜をクリアして、波で濡れた砂のところまで来てほっと一息。マジで殺人的な熱さだな、あれ。
隣で同じように濡れた砂の感触にほっとしている二人を手招きして、波打ち際に立たせてやる。
すると、押し寄せてきた波が小さな足を濡らして去って行く。そしてまた押し寄せて、去って行く。その繰り返しに、最初は驚いていたおちびたちも、何度も押し寄せる波を、おおー、と不思議そうにでも楽しそうに眺めていた。二人にとって海は初めてだから全てが新鮮なんだろう。一つ一つのことに驚いて喜ぶ姿がとても微笑ましくて、ついつい頬が緩む。うわっ、俺ってもしかして親バカ?
打ち寄せる波を一頻り堪能したのか、おちびたちは今度はざぶざぶと水の中へ入って行く。その後を俺は慌てて追いかけた。これくらいの子供ってある意味恐いもの知らずだからな。コケたりしたら大変だ。
そんな中、一際大きな波がやってきて・・・・・見事、アレルヤとハレルヤは足を取られて尻餅をついた。
「・・・・・・・ぷっ。」
その瞬間の二人の驚いた顔に俺は思わず笑ってしまった。
何事が起きたのかわからない、といった顔でぽかんとしている二人を起こして、大丈夫か?と訊ねると、
「おもしれー!」
とけたけたと笑い出だしたハレルヤに対して、アレルヤはちょっと及び腰だ。俺の水着の端を握り締めて後ろから覗き込んでる。不意な出来事にアレルヤは弱いんだよなぁ。
そんなアレルヤの為にも、ちょっと波際で水遊びをして。そろそろ慣れてきた頃かな?という頃に、はやくはやく!と恐いもの知らずのハレルヤが急かしてくる浮輪を持って、ほんの少し海の中に入ってみた。
海の中に入って俺が充分足が届く程度の深さでも、おちびたちにとっては充分溺れる深さで。その辺りで二人を浮輪に捕まらせて歩いてやる。
「しっかり捕まってろよー。」
とぐいぐい引っ張ってやると、
「おちない?おちない?」
「あははー、おもしれー!ろっくおん、もっとはやくー!」
心配げなアレルヤに対して、ハレルヤはもう大はしゃぎで。あ、おいこら、暴れるな!
ハレルヤのせいでぐらついてしまった浮輪に必死にしがみついているアレルヤの顔は今にも泣き出しそうなくらい歪んでいて・・・・・その顔に思わず笑ってしまった。悪ぃ、アレルヤ。
しばらくそうやって遊んだ後、おなかがすいた、という二人を伴って荷物のところまで戻れば、案の定ライルは爆睡中。よくこんな暑いところで寝てられるよな。
「おい、ライル。昼メシ食いに行くぞ。」
「らいるー、おきてー。」
と声を掛ける俺とアレルヤに対して、ハレルヤはいつも通りの実力行使に出た。そう、あのいつもの起こし方だ。少々乱暴だが確実に起きるもんな、ハレルヤのあれ。
「・・・・・ぐぇっ!?」
あ、起きた起きた。
少々涙目のライルとおちびたちを連れて海の家で食べた焼きそばとかき氷は美味かった。いや、特別なにかが美味いというわけじゃないんだけど、外で食べる食事ってのはどうして美味く感じるんだろうな。
アレルヤとハレルヤも喜んでいつも以上に食べるので、おかげで俺とライルの分も大方取られてしまって、もう一度買いに行く羽目になった。でも、ま、いっか。こいつらが喜ぶんなら、さ。
その後もう一度戻って、今度はライルが二人を連れて遊びに行った。俺は休憩も兼ねてパラソルの下からその姿を見守ることにする。
アレルヤも大分慣れたようで、ハレルヤと一緒にきゃっきゃと声を上げて遊んでる。ライルも一緒になってはしゃいでるところを見ると、なんだ、結局あいつも楽しんでるじゃねぇか。
そんな3人の姿を俺は、あぁ平和だなぁ、とぼんやりと眺めていた。
それからも一頻り遊んで。
すっかり海が気に入ってしまって、まだあそぶー!、というおちびたちを宥め賺して帰る準備をする頃には、人の姿も疎らになりつつあった。結構な時間を過ごしてたんだな、俺ら。
海に入った後は身体がべとつくからシャワーを浴びて、服を着替えて車を出発させる。結局、帰りの運転も俺だ。
まだまだ名残惜しそうな二人の為に、帰りは海岸沿いの道を選んで車を走らせることにした。
車を走らせてしばらく経ったところで、
「どうだ?海は楽しかったか?」
助手席のライルが後部席のおちびたちに尋ねれば、うん、たのしかった!と元気な返事が返ってきた。その返事に思わず眼を細める。そりゃ良かった。連れてきた甲斐があるってもんだ。
そうしたら突然、海を見ていたアレルヤとハレルヤが
「うみのいろって、ろっくおんとらいるのめのいろだねー。」
「なー。えほんでみたとおりだった!」
と言い出したのに俺たちは驚いて振り返ってみれば、二人はあっという間にスースーと寝息を立てて眠りに落ちていた。あ、そういや今日は昼寝なしだったもんな。
「ははっ、即行で寝ちゃったな、こいつら。」
夜ちゃんと寝れるのかぁ、なんて呆れた風に言うけど、ライルの顔はどことなく嬉しそうで。そんなこと言ったって満更じゃねぇクセに。俺だって、あいつらが強請って来たいと言った海と同じ色だと言われて、どこか擽ったいけど悪い気はしねぇもんな。
そうしたら今度は、窓枠に肘を付いて黙ってしばらく外の景色を眺めていたライルがぼそりと、
「・・・・・来年もまた連れてきてやるか。」
と呟いたのに、ああそうだな、と笑いながら返してちらりと助手席の方を見やれば、ライルもいつの間にか寝息を立てていた。っていうか、おまえもあいつらのこと言えねぇぞ!
気持ち良さそうな寝息以外聞こえない静かな車内。窓をほんの少し開けてみれば、まだ潮の香りが鼻を擽っていく。
事の発端は突然だったけど、それでも今日はいい思い出になったよな。おちびたちとライルと俺と。みんな一緒に来て良かった。
また来年もその次もその次の次もみんなで海に来よう。
寄せては返す波のように何度でも―――
2008.08